ロヒンギャとの対比において、タインインダーについて論じたさい、タインインダーにとってロヒンギャとは「民族」ではないと述べた。そこで、ロヒンギャとはいったいなんなのか、ということが問題になるが、アラカンのみならずタインインダーが一貫して主張していることに従えば、ロヒンギャは「移住者」ということになる。
だが、タインインダーはロヒンギャが移住者であるから、これに敵対しようとしているのではない。ロヒンギャが「民族」であると、つまりタインインダーのひとつであると主張しているからこれに敵対しているのである。タインインダーから見れば、ロヒンギャはタインインダーの決まり、暗黙の了解を破るものと見える。だから、タインインダーはこう考えるのだ。「われわれの決まり事を尊重できないのならば、ビルマにいることはできない、自分の国であるバングラデシュに帰れ」と。
しかしながら、この記事のはじめでも言った通り、ロヒンギャの人々はビルマこそ自分たちの国であり、ここ以外に帰る場所などない、と主張する(実際にバングラデシュはロヒンギャ難民の受け入れを拒否している)。ロヒンギャに言わせれば、自分たちはビルマ固有の民族(ethnic)なのである。
ロヒンギャがこう主張することと、自分たちがタインインダーであると主張することの間には距離がある。しかし、タインインダーにとってはその距離はまったく問題とならない。タインインダーは、われわれの目から見れば「曲解する」のである。
わたしにはどうしてそのような誤解が生まれるのかは分からない。もしかしたら、ロヒンギャ自身、あるいはその一部が自分たちをタインインダーと認めるように求めているのかもしれない。もっともわたしにはこれを裏付ける資料はないのだが。わたしはロヒンギャのことに関してはたいした知識も経験もないから間違っているかもしれないが、ロヒンギャが主として求めているのは、ビルマの国民としての権利の平等、ビルマ国民としての市民権であるように思える。しかし、アラカン州におけるロヒンギャの歴史には複雑ないきさつがあるようだから、その中でこれらの人々が「自分の土地」と言うべきものを持ち、それがアラカン人、さらにはタインインダーのナショナリズムにとって問題となっているのかもしれない。
いずれにせよ、本当の問題はロヒンギャにあるのではない。またアラカン人にもあるのではない。問題を引き起こしているのは、ビルマ民族を含めた広義のタインインダーという、ビルマの国の根幹ともいえる枠組み、いわばタインインダー・システムなのである。そして、アラカン人もロヒンギャもこのタインインダー・システムの犠牲者であるという点ではかわりはない。
ロヒンギャがムスリム(イスラム教徒)であることから、人々はしばしばこの問題を仏教徒であるアラカン人とムスリムとの対立、つまり宗教的な対立に由来するものと考える。しかしながら、仏教もまた、タインインダー・ナショナリズムを構成する主要な要素であることを考慮に入れれば、仏教対イスラムという宗教対立もやはり本質的なものではないことが分かる。つまりこの「宗教対立」はあくまでもタインインダー・ナショナリズムという背景なしには成立しえないものであり、決して双方の教義上、信仰上の対立が問題となっているわけではないのである。
要するに、タインインダー・システムさえ機能しなければ、ロヒンギャであろうとタインインダーであろうと、仏教徒だろうとムスリムだろうとあるいはキリスト教徒だろうと、何の対立もなく、何の不幸も、悲劇もなく、双方平安に共存できるのである。
だから、本当に問題なのは、ロヒンギャでもイスラムでもない。問題なのは、タインインダー・システムなのだ。このシステムが変わらないかぎり、タインインダーとそうでない人々との間に、悲しむべき出来事が起こり続けるであろう。
しかも、このタインインダー・システムは、ビルマの大多数の人々にとっては問うまでもない自明なものとして存在している(この自明性ゆえに先の「曲解」が生じたのかもしれない)。あまりにも当たり前なので、これ以外の枠組みがありうるとは想像できないのである。
だが、これをもってしてビルマの人々が想像力に欠けている、などと責めることはできない。なぜなら、その想像力のなさにかけては、われわれ「日本人」もやはり負けてはいないのだから。
つまり、ビルマの人々がタインインダー・システム以外に国の形を考えることができないのは、日本人が日本民族というフィクション、あるいは天皇や日本語などのいかにも日本的なものを離れて国の形を考えることができないのと、まったく軌を一にしているのである。
ここにいたって、われわれは遠いアラカンの地で起きていることとまさに同じことが日本でも起きていることに気がつかされるのである。
日本で生まれ育った在日朝鮮人・在日韓国人に対して「日本がイヤならば国に帰れ」とわれわれ「日本人」が言い放つことができるのも、また、日本に暮らす外国人たちが、さまざまな面で「日本人」よりも負担を強いられ、潜在的な不穏分子として扱われるのをわれわれが当然とすることができるのも、これらの人々が日本流タインインダー・システムを覆しかねない存在であると誰もが思っているからにほかならない。
アラカン人に対してもロヒンギャに対してもわたしは一貫してこれらの人々を裁くことを避けてきたが、それには理由があった。われわれの国、日本にも同じような問題があり、しかもいっこうに解決される気配もないのに、一体どうしてわれわれがこれらの人々に偉そうなことなど言えようか。
いや、ぼやぼやしてるうちに、日本人はアラカン人とロヒンギャにアドバイスされる側にになるに違いない。そして、わたしはそのような日が来ることを本当に願っている。
【資料】
アラカン人の立場を鮮明に記したものとして、アラカン民族運動の理論的支柱ともいえる神田外語大学のAye Chan先生の書かれた次の英文の公開書簡がある(ちなみに先生の肖像写真の撮影場所は高田馬場の駅前)。この書簡に付されたさまざまなコメントも興味深い。
Open Letter of Dr. Aye Chan to BBC Burmese
ロヒンギャ側、というかビルマのムスリム全体の問題として今回の事件を論じたものとして、日本の代表的な民主化活動家のTin Winさんの英文の記事("My Observation of accounts on recent communal violence in Burma and a brief analysis on its background")がある。重要なものだが、ネットでは公開していないようだ。
だが、タインインダーはロヒンギャが移住者であるから、これに敵対しようとしているのではない。ロヒンギャが「民族」であると、つまりタインインダーのひとつであると主張しているからこれに敵対しているのである。タインインダーから見れば、ロヒンギャはタインインダーの決まり、暗黙の了解を破るものと見える。だから、タインインダーはこう考えるのだ。「われわれの決まり事を尊重できないのならば、ビルマにいることはできない、自分の国であるバングラデシュに帰れ」と。
しかしながら、この記事のはじめでも言った通り、ロヒンギャの人々はビルマこそ自分たちの国であり、ここ以外に帰る場所などない、と主張する(実際にバングラデシュはロヒンギャ難民の受け入れを拒否している)。ロヒンギャに言わせれば、自分たちはビルマ固有の民族(ethnic)なのである。
ロヒンギャがこう主張することと、自分たちがタインインダーであると主張することの間には距離がある。しかし、タインインダーにとってはその距離はまったく問題とならない。タインインダーは、われわれの目から見れば「曲解する」のである。
わたしにはどうしてそのような誤解が生まれるのかは分からない。もしかしたら、ロヒンギャ自身、あるいはその一部が自分たちをタインインダーと認めるように求めているのかもしれない。もっともわたしにはこれを裏付ける資料はないのだが。わたしはロヒンギャのことに関してはたいした知識も経験もないから間違っているかもしれないが、ロヒンギャが主として求めているのは、ビルマの国民としての権利の平等、ビルマ国民としての市民権であるように思える。しかし、アラカン州におけるロヒンギャの歴史には複雑ないきさつがあるようだから、その中でこれらの人々が「自分の土地」と言うべきものを持ち、それがアラカン人、さらにはタインインダーのナショナリズムにとって問題となっているのかもしれない。
いずれにせよ、本当の問題はロヒンギャにあるのではない。またアラカン人にもあるのではない。問題を引き起こしているのは、ビルマ民族を含めた広義のタインインダーという、ビルマの国の根幹ともいえる枠組み、いわばタインインダー・システムなのである。そして、アラカン人もロヒンギャもこのタインインダー・システムの犠牲者であるという点ではかわりはない。
ロヒンギャがムスリム(イスラム教徒)であることから、人々はしばしばこの問題を仏教徒であるアラカン人とムスリムとの対立、つまり宗教的な対立に由来するものと考える。しかしながら、仏教もまた、タインインダー・ナショナリズムを構成する主要な要素であることを考慮に入れれば、仏教対イスラムという宗教対立もやはり本質的なものではないことが分かる。つまりこの「宗教対立」はあくまでもタインインダー・ナショナリズムという背景なしには成立しえないものであり、決して双方の教義上、信仰上の対立が問題となっているわけではないのである。
要するに、タインインダー・システムさえ機能しなければ、ロヒンギャであろうとタインインダーであろうと、仏教徒だろうとムスリムだろうとあるいはキリスト教徒だろうと、何の対立もなく、何の不幸も、悲劇もなく、双方平安に共存できるのである。
だから、本当に問題なのは、ロヒンギャでもイスラムでもない。問題なのは、タインインダー・システムなのだ。このシステムが変わらないかぎり、タインインダーとそうでない人々との間に、悲しむべき出来事が起こり続けるであろう。
しかも、このタインインダー・システムは、ビルマの大多数の人々にとっては問うまでもない自明なものとして存在している(この自明性ゆえに先の「曲解」が生じたのかもしれない)。あまりにも当たり前なので、これ以外の枠組みがありうるとは想像できないのである。
だが、これをもってしてビルマの人々が想像力に欠けている、などと責めることはできない。なぜなら、その想像力のなさにかけては、われわれ「日本人」もやはり負けてはいないのだから。
つまり、ビルマの人々がタインインダー・システム以外に国の形を考えることができないのは、日本人が日本民族というフィクション、あるいは天皇や日本語などのいかにも日本的なものを離れて国の形を考えることができないのと、まったく軌を一にしているのである。
ここにいたって、われわれは遠いアラカンの地で起きていることとまさに同じことが日本でも起きていることに気がつかされるのである。
日本で生まれ育った在日朝鮮人・在日韓国人に対して「日本がイヤならば国に帰れ」とわれわれ「日本人」が言い放つことができるのも、また、日本に暮らす外国人たちが、さまざまな面で「日本人」よりも負担を強いられ、潜在的な不穏分子として扱われるのをわれわれが当然とすることができるのも、これらの人々が日本流タインインダー・システムを覆しかねない存在であると誰もが思っているからにほかならない。
アラカン人に対してもロヒンギャに対してもわたしは一貫してこれらの人々を裁くことを避けてきたが、それには理由があった。われわれの国、日本にも同じような問題があり、しかもいっこうに解決される気配もないのに、一体どうしてわれわれがこれらの人々に偉そうなことなど言えようか。
いや、ぼやぼやしてるうちに、日本人はアラカン人とロヒンギャにアドバイスされる側にになるに違いない。そして、わたしはそのような日が来ることを本当に願っている。
【資料】
アラカン人の立場を鮮明に記したものとして、アラカン民族運動の理論的支柱ともいえる神田外語大学のAye Chan先生の書かれた次の英文の公開書簡がある(ちなみに先生の肖像写真の撮影場所は高田馬場の駅前)。この書簡に付されたさまざまなコメントも興味深い。
Open Letter of Dr. Aye Chan to BBC Burmese
ロヒンギャ側、というかビルマのムスリム全体の問題として今回の事件を論じたものとして、日本の代表的な民主化活動家のTin Winさんの英文の記事("My Observation of accounts on recent communal violence in Burma and a brief analysis on its background")がある。重要なものだが、ネットでは公開していないようだ。