以下は、在日ビルマ難民助けあいの会(BRSA)会員のキンウー(KHIN OO)さんが、2010年8月に『平和の翼ジャーナル』第10号にビルマ語で発表した記事で、1988年の8888民主化運動の経験が生々しく語られています。
もともと難民認定申請用に作成された日本語訳に、わたしが手を加えてBRSA機関誌「セタナー第4号」に発表したもので、著者の許可を得てここに掲載します(当時の状況に関しては田辺寿夫さんの『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎を参考にさせていただきました)。
軍事政権の不正な経済政策、政治、支配体制のもと、国民たちは日々困難に直面していたが、その不満が高まりつつあった時に起きたのが、ポーンモウ事件だ。1988年3月13日のことである。
ラングーン工科大学のある西チョウゴン地区の喫茶店、サンダーウィンで三人の学生と4人の市民がカセットテープをめぐり喧嘩をしたのが発端である。ビルマ社会主義計画党政府の不正な法律により、喧嘩がまともに解決されなかったため、学生たちが立ち上がる事態となった。騒動が激しくなると、軍事政権の治安部隊は学生たちに銃を向け、大学構内にまで突入してきた。上層部からどのような命令があったのかは定かではないが、治安部隊を目の前にして、学生たちはますます抗議の声を強めた。軍事独裁政権がついにその正体を現したのだ。コー・ポーンモウはこのときラングーン工科大学で銃弾により殺害された。そして、もうひとりの学生コー・ソーナインも重傷を負い、数日後に死亡する。軍事政権の非人道的な行動により、このポーンモウ事件が発生した。軍事政権は反政府活動を主導するラングーン工科大学をかねてから敵視しており、それが今回の復讐的行為となって現れたのだ。
弾圧があるかぎり反発するのは人間の自然な姿だ。心を痛めた学生たちは屈することなく抗議活動を続けた。運動はラングーン工科大学からラングーン大学へと広がった。3月16日に軍事政権はインヤー湖畔の通りでデモを行う男女の学生たちに襲いかかり、水面が血に染まるほどの虐殺を行う。インヤー湖畔事件、あるいは赤い橋事件とも称される事件である。後に大統領となるセインルイン自ら鎮圧を指揮し、民話の中の人食い鬼の踊りにある「打って痛めつけろ、打って痛めつけろ、頭を狙って打つんだぞ、打って打って勝てば褒美ぞ」という歌さながらの残酷さで学生たちをはげしく弾圧した。軍事政権こそが人食い鬼と化したのだ。
学生たちから始まったこの民主化闘争に賛同し、これに敬意を感じていた国民たちも、やがて加わるようになった。運動が深まり広がったのだ。すべての国民があちこちで学生たちと団結し、その活動を支援し始めた。長い年月の間、軍事政権に裏切られ続け、経済的、政治的、社会的に苦しんでいた国民たちは、学生たちの訴える正義に共感し、希望を託したのだ。
7月23日、混迷する事態を受けて、政府トップのネウィンが党議長の辞任を表明した。だが、軍事独裁政権の最高責任者は、このとき国民に対してもっとも恐るべき言葉を投げつけたのだ。「今後、人々が集まって騒ぎを起こした場合、ただでは済まない。軍は発砲するときは、命中するように撃つ。空に向けて威嚇射撃などしない」
後釜に座ったのは悪名高きかのセインルイン(カレン人指導者ソウ・バウジーを虐殺したのも彼だ)。軍事政権トップとなったセインルインは、8月4日、ラングーン市に戒厳令を敷き、地方に駐留していた部隊1万人を呼び戻し、ラングーン市内に陣取らせた。
1988年8月8日、8が4つ並ぶこの日に、学生と市民たちはかねてからの計画通り、大規模な抗議活動をビルマ全土で開始した。が、軍事政権はこれにたいしはげしい弾圧を加える。ラングーンでは、マハーバンドゥラー公園前でデモを行う数千人の国民たちが全滅した。
当時各地区の学生、青年たちは、国民たちと協力して民主化要求デモを行おうと考え、シュエダゴン・パゴダへのデモ行進を準備していた。わたしもまたそれらの若者たちのひとりであった。
わたしたちは、深夜0時に北オッカラーパに集合した。そして、ビルマ軍の無慈悲な行いと、軍事独裁の悪について演説し、討論した。その後、同志である兄弟たちとともに、シュプレヒコールを叫びながらデモ行進を始めた。メラム・パゴダに着いた頃、わたしたちは兵士たちを詰め込んだ軍用トラックと並んで進みながら、「国軍の兵はわたしたちの兵、アウンサン将軍の教えは学生や国民を殺すためではない」と叫び、軍の歌を歌った。8月だったので、雨が降っていた。わたしたちは前もって準備したアウンサン将軍の写真、タキン・コー・ドウフマインの写真、旗を掲げながら、4列になって整然とデモ行進をしていた。「社会主義計画党政府はいらない! 独裁政権をただちに廃止せよ! セインルイン政府はいらない! 我々は民主化を成功させる!」などと叫び続けた。
深夜1時に、北オッカラーパから、カバーエイ・パゴダ通りに着いた。そのとき、精神病院のほうから軍用トラックがパーラミ市のほうへと猛スピードで走っていくのを見る。わたしたちのグループも行進するのが難しくなる。「デモを止めて、バラバラになって来た道を戻るのだ、帰れ!、5分以内に言う通りにしなければ発砲するぞ」とセインルインの軍隊が命じた。わたしはそのとき旗持ち部隊のひとりとして先頭集団にいた。厳しい顔で軍を睨む。まぶしい照明の中、銃剣がきらめき、くっきりとその細部が見えた。
わたしたちはといえば武器などなかった。旗竿で立ち向かうのがせいぜいだ。あとはアウンサン将軍の写真ぐらい。結局は逃げるしかなかった。
兵士たちは武器を片手に追いかけ、逮捕しようとした。わたしは当時21歳、走って逃げることができたが、子どもや年配の男女はそれも難しかった。わたしは北オッカラーパの路地に逃げ込んだ。足音で、兵士が5人ほど追ってきているのがわかった。みんな周囲の民家に逃げ込んでいた。わたしもある家に助けを求めたが、人で一杯で入れてもらえなかった。別の家を探している余裕はなかった。安全な場所を見つけて隠れるほかなかった。そこで、その家の軒下に潜り込んだ。膝上まで泥水に浸かった。これではもう走れない。頭の上でどたどたと足音が聞こえた。軍人たちが家に上がり込んだのだ。窓を開く音、家の持ち主たちを怒鳴りつける声。軍人たちは部屋に入り込んで、蚊帳を引きはがして隠れている人を捜していた。やがて2階に匿われていた人たちがみんな見つかってしまった。引っぱり出されて、軍用トラックに載せられるのが聞こえた。軍靴で蹴る音、軍帽で叩く音、さまざまな音が聞こえた。いよいよわたしの番だ。軍人たちが家の下を照明で照らしながら探しはじめたのだ。泥の中にじっとしていることができずに逃げ出そうとした人々は、みな軍人たちに捕まってしまった。わたしはといえば、仰向けになって全身泥に浸り、鼻だけ外に出して呼吸をしていた。そうやって30分ばかりじっとしていた。生まれてはじめての経験。恐怖のあまり、心臓が破裂しそうだった。今捕まったらどうなる? そんなことばかり考えていた。やがて軍用トラックが出発する音が聞こえた。だが、まだ安全とはいえなかった。真っ暗闇でなにもわからない。40分ほど経ってから、ようやく隠れていた人々みんなが外に出てきた。それぞれが自分たちの経験を語った。わたしは情けなくて笑ってしまった。
9日の朝から、銃撃の音が鳴りはじめ、激しさを増していった。軍はまるで悪魔に呪われたように人々を殺していた。しかし、その最中でも、緑の制服をまとった学生たちがアウンサン将軍の写真を胸に抱いて勇敢にデモ行進を続けていた。デモが止む気配はなかった。決死の覚悟でデモに参加する人々の勇士のような精神が人々を駆り立てていたのだ。
デモは全国に広がっていた。8888民主化要求が爆発したのだ。これを押しとどめることは不可能だった。人食い鬼の歌とともに登場した大統領セインルインは、8月12日に退陣することとなった。その後、8月26日、わたしはシュエダゴン・パゴダ西門広場の集会でアウンサンスーチーさんの微笑みを見た。ビルマがこの民主化の微笑みをいつでも見られるような国になってほしいと祈りながら、筆を擱く。
もともと難民認定申請用に作成された日本語訳に、わたしが手を加えてBRSA機関誌「セタナー第4号」に発表したもので、著者の許可を得てここに掲載します(当時の状況に関しては田辺寿夫さんの『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎を参考にさせていただきました)。
8888のある夜の出来事
軍事政権の不正な経済政策、政治、支配体制のもと、国民たちは日々困難に直面していたが、その不満が高まりつつあった時に起きたのが、ポーンモウ事件だ。1988年3月13日のことである。
ラングーン工科大学のある西チョウゴン地区の喫茶店、サンダーウィンで三人の学生と4人の市民がカセットテープをめぐり喧嘩をしたのが発端である。ビルマ社会主義計画党政府の不正な法律により、喧嘩がまともに解決されなかったため、学生たちが立ち上がる事態となった。騒動が激しくなると、軍事政権の治安部隊は学生たちに銃を向け、大学構内にまで突入してきた。上層部からどのような命令があったのかは定かではないが、治安部隊を目の前にして、学生たちはますます抗議の声を強めた。軍事独裁政権がついにその正体を現したのだ。コー・ポーンモウはこのときラングーン工科大学で銃弾により殺害された。そして、もうひとりの学生コー・ソーナインも重傷を負い、数日後に死亡する。軍事政権の非人道的な行動により、このポーンモウ事件が発生した。軍事政権は反政府活動を主導するラングーン工科大学をかねてから敵視しており、それが今回の復讐的行為となって現れたのだ。
弾圧があるかぎり反発するのは人間の自然な姿だ。心を痛めた学生たちは屈することなく抗議活動を続けた。運動はラングーン工科大学からラングーン大学へと広がった。3月16日に軍事政権はインヤー湖畔の通りでデモを行う男女の学生たちに襲いかかり、水面が血に染まるほどの虐殺を行う。インヤー湖畔事件、あるいは赤い橋事件とも称される事件である。後に大統領となるセインルイン自ら鎮圧を指揮し、民話の中の人食い鬼の踊りにある「打って痛めつけろ、打って痛めつけろ、頭を狙って打つんだぞ、打って打って勝てば褒美ぞ」という歌さながらの残酷さで学生たちをはげしく弾圧した。軍事政権こそが人食い鬼と化したのだ。
学生たちから始まったこの民主化闘争に賛同し、これに敬意を感じていた国民たちも、やがて加わるようになった。運動が深まり広がったのだ。すべての国民があちこちで学生たちと団結し、その活動を支援し始めた。長い年月の間、軍事政権に裏切られ続け、経済的、政治的、社会的に苦しんでいた国民たちは、学生たちの訴える正義に共感し、希望を託したのだ。
7月23日、混迷する事態を受けて、政府トップのネウィンが党議長の辞任を表明した。だが、軍事独裁政権の最高責任者は、このとき国民に対してもっとも恐るべき言葉を投げつけたのだ。「今後、人々が集まって騒ぎを起こした場合、ただでは済まない。軍は発砲するときは、命中するように撃つ。空に向けて威嚇射撃などしない」
後釜に座ったのは悪名高きかのセインルイン(カレン人指導者ソウ・バウジーを虐殺したのも彼だ)。軍事政権トップとなったセインルインは、8月4日、ラングーン市に戒厳令を敷き、地方に駐留していた部隊1万人を呼び戻し、ラングーン市内に陣取らせた。
1988年8月8日、8が4つ並ぶこの日に、学生と市民たちはかねてからの計画通り、大規模な抗議活動をビルマ全土で開始した。が、軍事政権はこれにたいしはげしい弾圧を加える。ラングーンでは、マハーバンドゥラー公園前でデモを行う数千人の国民たちが全滅した。
当時各地区の学生、青年たちは、国民たちと協力して民主化要求デモを行おうと考え、シュエダゴン・パゴダへのデモ行進を準備していた。わたしもまたそれらの若者たちのひとりであった。
わたしたちは、深夜0時に北オッカラーパに集合した。そして、ビルマ軍の無慈悲な行いと、軍事独裁の悪について演説し、討論した。その後、同志である兄弟たちとともに、シュプレヒコールを叫びながらデモ行進を始めた。メラム・パゴダに着いた頃、わたしたちは兵士たちを詰め込んだ軍用トラックと並んで進みながら、「国軍の兵はわたしたちの兵、アウンサン将軍の教えは学生や国民を殺すためではない」と叫び、軍の歌を歌った。8月だったので、雨が降っていた。わたしたちは前もって準備したアウンサン将軍の写真、タキン・コー・ドウフマインの写真、旗を掲げながら、4列になって整然とデモ行進をしていた。「社会主義計画党政府はいらない! 独裁政権をただちに廃止せよ! セインルイン政府はいらない! 我々は民主化を成功させる!」などと叫び続けた。
深夜1時に、北オッカラーパから、カバーエイ・パゴダ通りに着いた。そのとき、精神病院のほうから軍用トラックがパーラミ市のほうへと猛スピードで走っていくのを見る。わたしたちのグループも行進するのが難しくなる。「デモを止めて、バラバラになって来た道を戻るのだ、帰れ!、5分以内に言う通りにしなければ発砲するぞ」とセインルインの軍隊が命じた。わたしはそのとき旗持ち部隊のひとりとして先頭集団にいた。厳しい顔で軍を睨む。まぶしい照明の中、銃剣がきらめき、くっきりとその細部が見えた。
わたしたちはといえば武器などなかった。旗竿で立ち向かうのがせいぜいだ。あとはアウンサン将軍の写真ぐらい。結局は逃げるしかなかった。
兵士たちは武器を片手に追いかけ、逮捕しようとした。わたしは当時21歳、走って逃げることができたが、子どもや年配の男女はそれも難しかった。わたしは北オッカラーパの路地に逃げ込んだ。足音で、兵士が5人ほど追ってきているのがわかった。みんな周囲の民家に逃げ込んでいた。わたしもある家に助けを求めたが、人で一杯で入れてもらえなかった。別の家を探している余裕はなかった。安全な場所を見つけて隠れるほかなかった。そこで、その家の軒下に潜り込んだ。膝上まで泥水に浸かった。これではもう走れない。頭の上でどたどたと足音が聞こえた。軍人たちが家に上がり込んだのだ。窓を開く音、家の持ち主たちを怒鳴りつける声。軍人たちは部屋に入り込んで、蚊帳を引きはがして隠れている人を捜していた。やがて2階に匿われていた人たちがみんな見つかってしまった。引っぱり出されて、軍用トラックに載せられるのが聞こえた。軍靴で蹴る音、軍帽で叩く音、さまざまな音が聞こえた。いよいよわたしの番だ。軍人たちが家の下を照明で照らしながら探しはじめたのだ。泥の中にじっとしていることができずに逃げ出そうとした人々は、みな軍人たちに捕まってしまった。わたしはといえば、仰向けになって全身泥に浸り、鼻だけ外に出して呼吸をしていた。そうやって30分ばかりじっとしていた。生まれてはじめての経験。恐怖のあまり、心臓が破裂しそうだった。今捕まったらどうなる? そんなことばかり考えていた。やがて軍用トラックが出発する音が聞こえた。だが、まだ安全とはいえなかった。真っ暗闇でなにもわからない。40分ほど経ってから、ようやく隠れていた人々みんなが外に出てきた。それぞれが自分たちの経験を語った。わたしは情けなくて笑ってしまった。
9日の朝から、銃撃の音が鳴りはじめ、激しさを増していった。軍はまるで悪魔に呪われたように人々を殺していた。しかし、その最中でも、緑の制服をまとった学生たちがアウンサン将軍の写真を胸に抱いて勇敢にデモ行進を続けていた。デモが止む気配はなかった。決死の覚悟でデモに参加する人々の勇士のような精神が人々を駆り立てていたのだ。
デモは全国に広がっていた。8888民主化要求が爆発したのだ。これを押しとどめることは不可能だった。人食い鬼の歌とともに登場した大統領セインルインは、8月12日に退陣することとなった。その後、8月26日、わたしはシュエダゴン・パゴダ西門広場の集会でアウンサンスーチーさんの微笑みを見た。ビルマがこの民主化の微笑みをいつでも見られるような国になってほしいと祈りながら、筆を擱く。