以下は、「平和の翼ジャーナル」第17号(2012年3月)に掲載してもらったものです。
難民を救うな
以前、あるビルマ難民男性が自殺したときのこと。
彼の妻子がビルマからやってきて葬儀に参列し、わたしはその様子をブログに書いた。すると、ある弁護士事務所からこんなふうに書いたメールがきた。「あなたの書いたものに自殺した男性の実名が記されている。これは、彼の家族の生命の安全に関わることだから削除してほしい。」 なんでも、彼の妻子の難民認定申請を担当しているから、とのことだった。そこで、わたしはこの男性の所属する難民団体のリーダーに尋ねてみた。すると「消す必要はない。というのも、わたしたちの団体は会員名簿を公開しているし、その男性もそれを承知で加入したのだから」とのことだった。弁護士事務所の方にはいい加減な返事をして、わたしは結局削除しなかった(ま、ブログごと消してしまったとしても、誰ひとり気がつきゃしないんですがね、残念なことに!)。
一般に難民を支援する人は、難民の命を守りたがる。安全上の理由、という名目で、難民の名前を隠し、居場所についてシラを切り、ついにはその存在すら抹消しようとする(これは今、第3国定住で日本政府がやっていることだ)。まるで、難民がある支援者なり支援団体の庇護下に入ったとたん、その難民の全人格、全権利まで自由にできるかのようだ(弁護士は依頼者と契約関係を結ぶから、いっそうそういう感覚になるのかもしれない)。危機管理の名の下なら、なんだってできる、報道陣を遠ざけたり、同じ難民との集会を拒んだり、秘密のアジトをつくったり、あるいはわたしのささやかなブログにすら削除を要請したり……(根に持つなあ)。
だが、難民の命は難民自身のものだ。弁護士のものでもなければ、支援者のものでも、政府のものでもない(そして、もちろんわたしのものでもない!)。
難民は命の危険があるから難民となったのだが、それはその人が自分の命を守ることができない、自分の命を適切に管理したり、自分自身のものとして扱うことのできない間抜けであることを意味するわけではない。難民はただ、自分の存在以外に根拠を持つ外的理由(政治、宗教、民族など)によって自分の命を脅かされたから、難民となったのである。
それゆえ、難民となること、あるいは難民であることをもって、その命がその持ち主の手から離れ、その人と離れたところで厳重に取り扱われ、箱に丁重に仕舞われてもいいという契約書に署名がなされたと見なすのは絶対に間違いだ。
なぜなら、それは結局難民をその人が逃げてきた場所へと連れ戻すことになるから。圧政、あるいは難民キャンプという監獄からようやく出てきた人を、難民という檻に再び閉じ込めることになるのだ(もうひとつの入管収容所……)。
だが、本当に必要なのは、その逆の仕事だ。難民が難民という檻から出られるように手助けすることだ。その命を「あなたの命を守る」と言う他の誰かにゆだねさせることではなく、難民が、その命を自分で守ることができるように、自分の命を自分のものとして使えるように手助けすることだ。難民を救うだなんてもってのほかだ。むしろ、難民から、脅かされてきた命を、否定されてきた人間性を救い出さなければならないのだ。