2013/11/01

言語学の逆襲

エドモンド・リーチの『高地ビルマの政治体系』(1954,日本語訳は1995年,関本照夫訳,弘文堂刊)は文化人類学の名著にあげられるほどの本で,おそらくこの本だけでカチン民族のことを知っているという人も多いのではないかと思う。

すでに60年以上前の研究なので,現在の文化人類学から見てどのような評価をされているかは分からない。少し必要があって目を通したのだが,当時の文化人類学に対してものを言おうとしているようなところがあって(「今日の人類学がもつ社会構造概念の根本的転換が必要だと,わたしは主張したい(p316)」とか),当たり前のことだが,そうした部分は古くさく感じるし,また大して面白くもない。

この本のテーマのひとつは,従来の1言語=1民族=1文化という単位で定義するやり方が「絶望的までに不適当(p321)」な「カチン民族」をどう理解するかということで,これはわたしにも確かに興味深く思えた。

カチン民族というのは,実のところ民族ではなく,同じ文化を共有するいくつかの民族(ジンポー,マルー,アツィなど)の集合体であり,これは通俗的な民族概念,例えば「日本語話者=日本民族」では理解できない。

その「理解できない」ところがこの本では理論的に重要な役割を果たしているのだが,まあ,どこまで理解できたかは分からない。おなじみの親族構造の系統樹みたいのとその説明をすっかり読み飛ばしたからだ。

それはともかく,民族,言語を一対一対応させるやり方を批判するリーチは,その際にしばしば言語学を引き合いに出す。簡単にいえば,言語学者がひとつの言語の話者集団をひとつの民族と勝手に決めてしまうので,文化人類学者は迷惑している,と。

わたしはどちらかというと言語学に肩入れしており,とんだとばっちりを喰らった気分だ。

ところで,カチン語(ジンポー語)にはもともと文字はなかったが,19世紀末にアメリカの宣教師がローマ字をもとに文字を導入した。

ローマ字というのは現在の世界では主流の文字体系なので,カチン人は,ビルマ文字やそれと同系統の文字を使うカレン文字などにくらべていまのところ圧倒的にその利点を享受している。

どの国のどのコンピューターでもカチン語でメッセージを送ることができるからだ。

しかし,その一方カチン語には,ビルマ語やカレン語などと同じように声調というものがあり,ビルマ文字やカレン文字ではこれをかなりの程度正確に表すことができるのだが,ローマ字起源のカチン文字ではこれはたいていの場合表記されない。また,ローマ字にない音も表記することができない。

その結果,カチン文字の表記には曖昧さが生じることになる。

例えば,"lu"という単語がある。

これをカチン語辞書(オラ・ハンソンの"A Dictionary of the Kachin Language",これ自体非常に古い辞書だ)で見ると,いくつもの意味が載っている。

Lu 〜できる
Lu na 〜できる,〜しなくてはならない
Lu 3人称単数の動詞接辞
Lu 与える
Lu 乱れる
Lu 飲む
Lu 持つ

だが,カチン語についてわたしが持っているわずかな知識によれば,《飲む》のluの後には声門閉鎖音がある。

声門閉鎖音というのは喉の奥の声門による破裂音で,日本語にはないが,世界の言語ではありふれた音だ。「あ・あ・あ・あ」と母音をぶつ切りにして発声すると,「・」の部分で声門が閉じて開くのが分かるが,そのときにこの音が出る。

この音には"ʔ"という記号を当てるのが慣例となっており,したがって《飲む》はより正確には"luʔ"と表記されることになる。もっと正確に,"luʔ31"と声調を付け加えることもできる(31というのは,5段階に設定された声調の高さのうち3段目から1段目に下降することを示す)。

いっぽう,《持つ》と《〜できる》のLuにはそうした語末の子音がなく,声調を加えて表記すれば,"lu31"となる(この3つ以外の"Lu"についてはわたしは分からない)。

つまり少なくとも《飲む》と《持つ/〜できる》の3つについて言えば,カチン文字ではどちらも同じ"Lu"で表されるけど,本当のところ,両者はまったく異なる音だ。これはカチン文字体系が語末の声門閉鎖音を表すすべを持たないということに起因する。

ところが,リーチはこのLuについて次のように言っている。

「ルという語がもつ多数の意味のなかで,私が基本的なものと考えるのは『飲む』である。もし何かを飲めば,それを楽しみそれを『持つ』。もし何かすることがあれば,それが『できる』か『しなければならない』かである(p215)」 

この分析はそもそも成り立たない。というのも,《飲む》のLuと《持つ/〜できる》のLuは似ているけれど,まったくの別物だから。

これは,あたかも日本語の平仮名で書いた「はし」が「箸」と「橋」のどちらにも取れるのを見て,「はし」は2本の長い棒で成されることを示す,などとこじつけるのに似ている。しかし,実際のところ,「箸」の「はし」と「橋」の「はし」は(少なくとも標準語では)アクセントが異なるのであり,これはまったく別の単語と見なさなくてはならない。つまり,2つの単語に意味の繋がりを求めるのはまったく無意味なことなのだ(2種のLuが別物であることは実際にカチン語の話者に聞いて確認済みだ)。

それゆえ,"Lu"に関するリーチの考えはまったくでたらめといわざるをえない。 リーチは似たような誤りを他にも犯していいて,わたしは彼の文化人類学的分析の正当性も割り引いて考えなくてはならない,と思うようになった。

ああ,彼がもう少し言語学に敬意を払っていれば,このような過ちは防げたはずなのに!