2012/05/22

カチン料理の精髄

カチンのマノー祭りのことを書いたが、いろいろ詳しく知りたくなったので、その専門家に2度ほどインタビューをさせてもらった。

けっこう長いので、まとめるのには時間がかかる。だから、それはいずれというわけだが、それはともかく、聞き取りにお邪魔させてもらった東十条の家で、カチン風の料理をごちそうになった。

牛肉のそぼろの料理、納豆のサラダ(唐辛子入り)や鶏肉とタケノコの煮物などは、わたしにとってはいわばカチンの料理の定番で、何度も食べさせてもらったことがある。

だが、その日はもう一品、はじめて口にする料理が出た。

それは一見普通の野菜サラダだ。トマト、キャベツ、唐辛子、菜っ葉を和えたもの。わたしは何の考えもなく口に運んでいたのだが、その料理を作ってくれた人が、わたしがなにかの菜っ葉だと思っていたものが、ドクダミ草であることを教えてくれた。

つまり、ドクダミのサラダというわけ。

ドクダミというと、お茶か、独身アパートしか知らないわたしは珍しく思い、改めて味わってみると、確かに変わった風味がある。

「これはカチンの料理ですか? それともビルマでは普通なのですか?」

と聞くと、カチンだけだという。

「へえ、それにしても、よくこんなものが手に入りましたね」

すると、裏手にある隅田川で摘んできた、とのこと。

実際、ドクダミ草というのはありふれた植物らしいが、そんな近場で野生のものを摘んで食べることができる、という(本当は当たり前の)ことにちょっとびっくりした。

なお、犬の散歩道あたりに生えてるようなバッチイのではなく、奥のほうから摘んできたから、きれいだって。


ごちそうさまでした。


2012/05/20

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(終わり)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の最終回。)

(3.カレン民族の政治組織の続き)
他のカレン人組織

多くのカレン人組織が活動している。あるものはカレン人を支援するKNUと直につながっている。ビルマ国内とタイには次のようなものがある。

*カレン人大量虐殺反対委員会
*カレン人国内避難民委員会(CIDKP)
*カレン難民委員会(KRC)
*カレン女性機構(KWO)
*カレン青年機構(KYO)
*コトゥーレイ労働組合連盟(FTUK)
*救援と発展のためのカレン事務局(KORD)
*カレン人権グループ(KHRG)
*カレン学生ネットワーク・グループ(KSNG)

KHRGにはウェブサイトとニュースレターがある。他の刊行物には、カレン情報センターの月刊ニュースレター、クウェカル(メルギ・タヴォイ地区の月刊ニュースレター)、タヌトゥー(KNUの季刊誌)があり、また他の委員会やグループにも定期刊行物がある。

海外のカレン・グループ

*カレン民族連盟
*カレン連帯機構
*カレン・アクション・グループ
*オーストラリア・カレン機構
*アメリカン・カレン・エージェンシー
*海外カレン機構(OKO)

最後に述べるべきは、KNUが以下のような数々の多組織同盟に参加していることである。

* 国民民主戦線(NFD)ではKNU議長が議長を務めている。NFDは1976年に結成された非ビルマ諸民族組織の同盟である。そのメンバーは、はっきりした領土と武力を持った単独の民族組織からなる。その目標は、ビルマに民主主義連邦を創造すること、より一般的には社会進歩を達成することにある。公式にはこの組織は広範囲の軍事協力を行っている。しかし、現在は実質的に政治的活動に転じている。NDFは9つの組織からなり、カレン、チン、アラカン、モン、その他の小さい民族が含まれている。

*ビルマ民主同盟(DAB)では、KNU副議長が議長を務めている。DABは1988年にSPDCの前身であるSLORCによって行われたビルマの主要都市での虐殺に対応すべく設立された。NFDよりも大規模な同盟であり、少数民族組織だけでなく、ビルマ人組織や、学生グループをも含む。そのうちには、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)、全ビルマ学生組合連盟(ABFSU)、新しい社会のための民主党 (DPNS)がある。DABには15の加盟団体があり、NDFと同様の使命を持つ。

*ビルマ連邦国民評議会(NCUB)ではKNU副議長が議長を務める。NCUBは1992年に設立され、NDF、DAB、国民民主連盟(解放区)、議員同盟からの代表を含み、ビルマ民主化運動の最大の連合体である。KNU外務省長官もまた、NCUB実行委員会に加わっている。

*少数民族連帯協力委員会(ENSCC)はNDF、カレンニー民族進歩党、少数民族統一国民民主連盟などからなり、KNU議長が議長を務める。ENSCCは2002年に結成された。その目的は、SPDCと、NLD、少数民族グループとの3者対話の促進にある。

*5組織軍事同盟

(おしまい)

2012/05/19

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(8)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の8回目。)

(3.カレン民族の政治組織の続き)
カレン民族解放軍(KNLA)

以下は要約に過ぎない。

カレン人の自己防衛軍事力は、カレン民族解放軍、カレン民族防衛機構、さらにカレン警察、民兵、村落警備隊からなる。あわせて1万人以上の武装したカレン人がいる。

KNLAには7つの旅団と4つの本部大隊がある。旅団は5つ以下の大隊からなり、大隊は4つの中隊、中隊は3小隊、小隊は12人からなる3つの班からなっている。KNLAにはまた情報部、需品係将校、連絡将校、医療、軍事訓練、補充部門がある。

KNLAは5組織軍事同盟のメンバーである。他のメンバーは、カレンニー民族進歩党、アラカン解放党、チン民族戦線、シャン州南部軍である。同盟は情報を共有し、防衛協力を行う。

KNLAの使命はその創立から現在に至るまで、カレン人のための自己防衛のみにある。こうした防衛がなければ、カレン人はおそらく絶滅させられるだろうからである。KNLAには、カレン人の平和を守ること以外に望むものはない。

カレン人の自己防衛の要求に含まれるのは、SPDCの攻撃に対抗すること、麻薬を禁止すること、村の安全を確保すること、そして、人道支援活動の安全を確保することである。麻薬に関しては、KNUの方針は以下のようにまとめることができる。

1. コトゥーレイ、つまりカレン州は常に麻薬撲滅政策を実施してきた。これは今のところ、うまく成し遂げられている。

2. われわれはビルマの麻薬製造による脅威が増しつつあることに対処しなくてはならない。

3. KNLAはこの脅威に対処しうる特別作戦を確立している。

4. この問題にはカレン領土内あるいはカレン領土を通した覚醒剤、アヘン、ヘロインなどの麻薬の製造、流通、販売が含まれている。

5. こうした活動にかかわるものは、必要なあらゆる武力でもって逮捕される。

6. われわれは、この問題に関して協力的なアプローチを発展させるために、他のグループとともに働くこと、そして世界中の関心を持つグループからあらゆる支援を求めることを望んでいる。

実際問題として、われわれは、麻薬をカレン州から放逐し、タイへの船積み輸送をとどめるべく戦っている。あるときには、われわれは麻薬をビルマで見つけると、それらを処分するか、タイ当局へ引き渡すかしている。またあるときは、船積みにやってくるタイ人に警告を発し、タイ人自身に逮捕させている。

不幸なことだが、一言でいえば、われわれに手にはいる資源では、KNLAはカレンのための防衛を完全に成功させることはできない。われわれには、十分な人員、物資、武器がないのである。ひとつの理由としては、領土が長年にわたり減少し、そのために(正当な交易における)税徴収能力が落ち、防御に必要な資金が減少したことが挙げられる。また、現在のタイ政府は、一般的には麻薬に対するカレン人の闘いには手を差し伸べるものの、これ以外のこと、つまりSPDCに対してカレン人が強力に防衛することには反感を抱いているのである。

2012/05/18

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(7)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の7回目。)

3.カレン民族の政治組織
カレン民族同盟(KNU)

KNUは、ビルマがイギリスから独立して以来、カレン人のための確固とした政治組織として活動してきた。さらに、KNUは本来的に民主的な組織である、というのもその中核に、つねに村に根ざした選出組織があるからである。それぞれの村で村会と村長が選出される(村における最初の選挙は、イギリス支配期に行われた。それ以前には村は長老によって治められていた)。村長は実際非常に難しい地位である。というのも、彼もしくは彼女(女性が村長の村は数多い)は、 SPDCの要求、たとえば強制労働の要求に応じなくてはならず、つねに民主化運動を支持していると責められるからである。村長はしばしば投獄され、拷問をうけ、殺される。

10から20の村がひとつにまとめられて、「村落」をなす。村会は、委員長、副委員長、事務長などの村落委員会委員を選出する。この手続きは、9から10の村落からなる郡レベルでも繰り返される。郡においても、そのすべての郡に、情報省、健康省、教育省、農業省、森林省のKNU職員がいる。他の省は、必要に応じて特定の郡に置かれている。

郡は最終的に、カレン州内の7つの地区に組織される。それぞれの地区には選挙による委員会があり、それには議長、副議長、事務長、各省の地区職員がいる。

7つの地区のビルマ語とカレン語の名称と、そこに関連するカレン民族解放軍の旅団は以下のとおりである。

タトン ドゥータトゥー 第1旅団
タウングー トーウー 第2旅団
ニャウンレビン クレールィートゥ 第3旅団
メルギ・タヴォイ ブレータウェ 第4旅団
パプン パプ 第5旅団
コウカレイッ ドゥープラヤ 第6旅団
パアン パアン 第7旅団

KNUの日々の活動は、執行委員会によって運営されている。この委員会は11名のメンバーからなるが、現在は9つの役職だけが充当されている。

・議長(大統領)
・副議長(副大統領)および防衛大臣、防衛省
・事務総長(首相に相当)
・副事務総長1、組織省
・副事務総長2、情報省
・KNLA長官および総司令官
・副長官、森林鉱山省
・外務省長官
・救援復興省長官
・運輸交通省長官(在職中に死去)
・同盟省長官(現在空席)

執行委員会は基本的に週一回開かれる。すべての省の報告が事務総長に直接なされる。防衛省報告もこれに含まれる。他の民主主義国家と同じく、防衛軍は執行事務局の命令下にある。KNLAはカレン人の抵抗運動の一翼を担う軍事組織であり、KNUに全面的に従属している。

KNUには15の省庁がある。外務省を除くすべての省は地区レベルにまで支庁(時には郡レベルにまでも)がある。ほとんどの省では、予算の制限により、中央部の職員の規模は非常に小さく、1~2人の職員に1~2人の補佐がいるのみである。たとえば情報省は、人権侵害や紛争などの報告を含むKNUのウェブサイトを 2年にわたり運営していたが、この活動は、ウェブ管理者に支払ったり、サーバーを借りたりする資金の不足のため、中断されることとなった。

KNUの省は以下の通り。

農業省
同盟省
防衛省
教育省
財務と税務省
外務省
森林省
健康省
情報省
内務省
法務省
鉱山省
組織省
救援復興省
輸送交通省

以前は、漁業省と畜産省もあった。

健康省、教育省、森林省、農業省は最も規模の大きい省である。健康省に含まれるのは、看護婦、衛生兵、何人かの医師のいる地区健康省と、地区診療所、さらに移動診療所と難民キャンプ診療所である。教育省はいくつかの高校と、難民キャンプ内の小学校と大規模な国内避難民地域で小学校を運営している。森林省は事実上最も大きい省であるがそれは、各地区に森林警備員を置いているからである。かつては、かなりの材木が収入のために伐採されたが、現在では減少している。KNUはカレン州に残る森林を保存しようと努めている(われわれは3つの地区で熱帯雨林の保護地域を設けている。そこでは伐採と狩猟が禁止されている が、タイ人が保護地区にひそかに入り、木を伐り、密猟を行っている)。

組織省はKNUの会員の増大に努めている。どのようなカレンの個人もKNUにはいることができ、年会費も非常に低い。組織省は、またカレン女性機構とカレン青年機構の後援も行っている。

情報省は、人権侵害、紛争、経済・政治問題についての報告を公にすることで、SPDCによる情報隠蔽に対抗しようとしている。カレン情報センター(「民主主義のための国民基金」によって資金援助されている)を通じて、ニュースレターを発行している。

法務省に関して言えば、刑法と市民法において使われている法的枠組みはイギリス法を基本にしている。それぞれの郡と地区、そしてカレン州全体に、高度に組織された法廷と裁判官を置いている。最終控訴は恩赦の権限を持つ大統領に対してなされる。われわれはまた多くの拘留施設を運営している。内務省にはカレン警察と村落警備隊が含まれる。

われわれはコトゥーレイ州憲法草案を準備している(その前文はすでに第1章に掲げた)。これは現在執行委員会において第1次審議が行われている。これが済むと、おのおのの地区とカレン人諸組織に配布されて、意見を求めることになっている。憲法はビルマの新しい連邦憲法に合うように作成されている(カレン人代表が、連邦憲法草案委員会に加わっている)。カレン州の憲法の準備はカナダの国民和解プログラムからの援助によって可能となった。

KNUにはまた、30人の正式委員と15人の委員候補を含む45人のメンバーからなる中央委員会がある。中央委員会は年に一度行われ、事実的には議会の機能を果たしている。すべての重要な問題が議論され、必要に応じて投票が行われる。

4年に一度、KNU大会が最低3週間の期間で開催される。その間、大統領と副大統領を含む選挙か行われる。KNUのすべての地区の代表は、大会への参加、候補の推薦、選挙での投票を許可されている。全体で1,000人のKNU職員がおり、60,000人のメンバーがいる(KNUのメンバーとして受け入れられ ているKNLAの兵士たちも含む)。

2012/05/17

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(6)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の6回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
カレン人の大量虐殺

大量虐殺の法的定義は、ビルマも批准している「1948年の大量虐殺の防止とその犯罪の処罰についての国連会議第2項」に以下のように見出せる。

「本会議において、大量虐殺とは、全体的にせよ部分的にせよ、国家や民族、人種や宗教基づく集団を滅す意図で行われる次のような行為のうちいずれをも指す。
1.その集団の成員を殺す
2.その集団の成員の身体や精神に深刻な被害を与える
3.全体的にせよ部分的にせよ、物理的破壊を意図して、その集団の生存条件に害を故意に与えようとする。すなわち、
4.その集団内の子どもの誕生を妨げる手段を強制する
5.子どもたちを強制的に他の集団へと移動する」

2000年にKNUは、(独立したNGOの協力の下に)カレン民族大量虐殺反対委員会を結成した。この委員会の目的は、われわれが強いられている状況が、いかに上記の定義、特にはじめの3点に合致するかを、記録し、公表することにある。

歴史的にはカレン人に対する虐殺は次のように生起した。ビルマの政治状況は、独立より
 1962年のクーデターに至るまで動揺しており、いくつかの住民紛争はあったが、全面的、あるいは計画的な民族絶滅作戦はなかった。これが、1963年、ネウィンが経済、そして、さらに重要なことに学校を国有化したときに変わったのである。これ以前にはわれわれは、自分自身の学校を第10学年まで持っていたのである。ネウィンは、カレン人学校に対する州政府の援助を打ち切り、教室でのカレン語の使用を禁じた。またネウィンは宗教に基づく学校も国有化したので、いかなる宗教的活動も行えなくなり、結果として、カレン人のためのミッション・スクールもまた閉鎖されたのである。

そして、ネウィンはカレン人に対する軍事行動を再びはじめ、カレン人のみが銃を置く一方的停戦を要求したが、われわれをこれを拒んだ。

1960年代中ごろ、カレン難民危機が始まった。これはネウィンが「四分断」政策を始めたときに起きた。この政策における彼の目的は、カレン人の収入、情報伝達、 兵の補充、食糧供給を分断することであった。彼ははじめてカレン人の収穫物の破壊を命じた。また、われわれがわずかな課税によって収入を得ていたタイとの国境貿易も禁止された。情報に関していえば、われわれには村落間を人が走って情報伝達する仕組みを築いていたが、ネ・ウィンはこれを破壊しようとした。兵の補充の分断のためには、村を丸ごと強制的に移し、村の指導者を拷問の末に殺すことで、村人たちがKNUと連絡を取れないようにした(こうした強制移住は後に、ビルマ軍に強制労働を絶え間なく提供する手段として用いられた)。そして最後に、最初に挙げた分断目的と同じような意味で、村を焼き払い、穀物をだめにし、家畜を略奪するよう命令がが下された。

要するに、SPDCがいまなお遂行している四分断作戦とは、カレン民族に対する組織的な焦土作戦なのである。その最終的な目標は、カレン人とカレンの文化的アイデンティティの破壊にある。そして、この蓄積がもたらす効果は、民族浄化、民族虐殺以外のなにものでもない。

四分断作戦が開始されてから20年ほどの間は、われわれには安全な季節があった。ビルマ軍は乾季にしか作戦を行わなかったのである。しかし1984年に転換 があった。ビルマ軍はカレン州に侵攻し、一年中われわれを弾圧するようになった。これが結局は、大量の難民・国内避難民の出現という危機的状況を生んだのである。

現在、タイ・ビルマ国境の難民キャンプには、およそ130,000人の難民がいる。100,000ほどがカレン人であり、残りはカレンニー人とモン人である。タイ政府はシャン人の難民の登録を拒否しており(モン人はシャン人ほどには拒否されてはいない)、シャン人のキャンプはない (しかしながら、何万ものシャン人の難民・国内避難民がいる。シャン人とカレンニー人は同様に民族浄化と民族虐殺の対象となっているからである)。

カレン人難民危機はまた、新しい難民にはタイでの滞在を一時的にだけ許可しようという、現在のタイ政府の態度によっても悪化させられている。既存のキャンプへの新しい難民の入居は許されないのである。さらに、タイ政府は、いまやSPDCを全面的に支援する構えである。タクシン・シナワトラ首相は、SPDCに とっての筆頭の盟友とすらいえるのだ。この友情の果実のひとつが、難民に大きい影響を与えている別の方針、一時的滞在であっても、新しい難民は受け入れない、難民たちが紛争から逃げてきたということが証明されない限り、すなわち銃声が聞こえない限りは、という方針である。しかし、タイ人はビルマ軍と、紛争を国境から離れた場所で起こすように裏で取り決めているのである。ゆえに、国境警備隊は銃声を聞くことはできず、したがって、難民は実際には命からがら逃げているということにはならない。それどころか、金目当ての移民ということなのであり、入国を拒否することができるのだ。

国内避難民として苦しむカレン人の数は、難民の数から推定されるよりも実際ははるかに多い。カレン州には、シャン人なども含むにしても、およそ500,000の国内避難民がいると見積もられている。また、タイにはビルマからの出稼ぎ労働者が百万人ほどおり、そのうち300,000がカレン人だとされる。

全体としてみれば、百万人以上のカレン人がその家と村から引き離されているのである。すくなくとも数万人が殺されたり、逃亡中に病、とくにマラリアと下痢で死んだりしている(信頼できる資料はない)。何千もの村が破壊された。逃亡する村人にとっては、いかなる選択肢も悪いものだ。強制移住先の村に閉じこめられ、強制労働、窃盗、強奪 の対象となるか。あるいは国内避難民となり森の中で生きるか死ぬかの生活をするか。あるいはキャンプ難民となるか(しかしながらこの選択肢は、キャンプに何十年も閉じ込められ、訪問者を受け入れることを禁止されている不愉快なものであるにしても、もはや手にはいらないものだ)。さもなければ、移住労働者となって、労働虐待に苦しみ、奴隷の境遇すら味わうか。

ネウィンの下ではじめられたSPDCの政策は、成功しつつある。われわれは大量虐殺の犠牲者である。そしてこの虐殺は、何世紀にも渡るビルマ人の帝国主義とその狂信的な民族主義の信念に直につながっている。SPDCはナインガンドー・アチアケ、帝国の長老と自称している。この名称はバガンの最初のビルマ人帝国の名であるパタマ・ミャンマー・ナインガンドーにつながる合言葉である。狂信的民族主義者の作家たちは、現在の政治体制をサドッタ・ミャンマー・ナインガンドーすなわち、第四ビルマ帝国と書き表す。

カレン人の大量虐殺、シャン人やカレンニー人などのビルマの他の民族集団の大量虐殺が終結するためには、SPDCという最新のビルマ人帝国主義集団を権力の座から引きずり下ろさねばならない。

最後に、この大量虐殺がいまも継続であることを強調しなくてはならない。カレン州で行われた殺人や村の焼打ちなどの人権侵害に関するKNUの最新の報告は、請求すれば入手することができる。

2012/05/16

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(5)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の5回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
現代政治史

カレン民族同盟は、カレン民族協会、カレン中央機構、仏教徒カレン民族協会、カレン青年機構の4つの組織が融合して1947年に結成された。終戦後、イギリス人がビルマを去るのは必至であるとわれわれは信じていた。それゆえわれわれは自分たちを守らねばならず、これがため統合を果たす必要があったのである。

1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、ウ・ヌが反ファシスト人民自由連盟(AFPFL。イギリスに抵抗する有力な政治団体)のリーダーとなった。しかし彼の指導の下ではビルマは本当の連邦国家とはならなかった。というのも、彼はパンロン合意を尊重しなかったからである。彼は、諸民族の議会をビルマ人の支配下に置き、仏教を国教化しようとした。名前だけの連邦制であり、ビルマは事実上ビルマ民族の完全支配下にある一元的な国家でしかなかった。

1948年1月、イギリス人はビルマを去った。独立の前段階において、イギリス人の間では、権力委譲があまりにも性急で、ビルマには民主主義に備えて更なる準備期間が必要だということについて議論がなされていた。

1948 年2月11日、KNUは、カレン人のための平等、カレンの本拠地となる州の(連邦制の枠内での)創設を求め、われわれは住民どうしの不和と内戦を望まないと訴えつつ、整然とした平和的なデモを組織した(同時期に一部のビルマ人は、カレン人との戦争を計画していた。われわれに民主主義を許すかわりに、われわれを殺そうとしていたのである)。われわれは封建時代から抑圧され続け、民族的一体感を持ったことはなかった。しかし、その一体感はキリスト教の受容と、 また仏教(そのときにはわれわれが仏教徒になることは可能になっていた)によって発展し、20世紀初頭にはカレン人の作家たちは、カレンの本拠地の可能性についての議論をはじめていた。戦争の後、ビルマ人のあるものは、断固としてこの要求を実現させまいと考えたのである。

一年中、ビルマの新聞はわれわれに関して扇情的な記事を書きたてた。われわれはイギリスの雇われ人、野蛮人として非難された(今日にいたるまで、われわれには「たむし」とい う蔑称がつけられている)。2月のデモはイギリス人が指揮したものだと噂された。その年の終わりごろから、ネウィンの「ポケット・アーミー」がデルタ地方にいるわれわれカレン人を攻撃しはじめた。ポケット・アーミーとは秘密の国防軍であり、非正規の軍であり、ヒトラーがその初期の上昇期に用いていた軍隊に近いものである。ネウィン(1962年になってようやく権力を掌握するのだが)はその当時からビルマ住民間の不和を率先して作り出していたのだった。

クリスマスの時期には、このポケット・アーミーはあちこちで教会を焼いたが、その中にはまだ信徒たちがいたのである。1949年1月、彼らはラングーンのカレン人居住区を焼き払った。それからその月の下旬に、ラングーン北部のインセインの町(現在そこには悪名高い刑務所がある)にやってきて、拡声器で、カレン女性たちを強姦してやる、お前たちを掃討してやる、と脅迫した。まさにこのインセインにおいて、そして、まさにわれわれが現在「抵抗記念日」と呼ぶこの1月の31日に、われわれの革命が公式に始まったのであった。

自衛を目的とする最初のカレン軍がKNUによって組織され、カレン民族防衛機構(KNDO)と呼ばれた。このとき、ビルマ軍の正規大隊に配置されていた3人のカレン人と、さらに幾人かのカレン人警察幹部がKNU/KNDOへと走った。

要するに、われわれの武装蜂起は、われわれを苦しめた攻撃とウ・ヌの取った行為に対する正当な応答だったのである。引き続いてわれわれは、カレン人民解放軍 とカレン人民ゲリラ軍を含む数々の自衛組織を結成した。これらは最終的にカレン民族解放軍(KNLA)に組み込まれた。

また注記すべきは、パンロン合意は、署名したシャン人などの民族集団に、合意の日から10年後にもし国の発展に不満ならば、いつでも脱退できる権利を認めていることである。

*この脱退が可能となる以前の1958年、ネウィンと軍部は政府の支配権を握った(彼らは「世話人」政府と自称した)。
 *1960年初頭に選挙が行われ、ウ・ヌが首相として返り咲いた。
*1961年、パンロン合意の山岳地域側の署名者らが、憲法改正と完全な政治的自治権を要求した。
* その後、1962年2月2日、開催中の国会においてウ・ヌが演説をしようとしているときに、ネウィンはふたたび権力を掌握し、今度は絶対のものとした。彼は、憲法改正が、他民族地域におけるビルマ軍の優位を終焉させるのではないかと恐れ、ビルマ人と他のビルマ諸民族の平等が成立しないように断固として行動したのである。

そして40年後のいま、ネウィンの望みはなお実現の途上にある。

1990年、SPDC はビルマにおける選挙の実施を許可した。しかし、われわれには政党を結成することは許されなかった(いかなる政党も名前にカレンという語があってはならなかった)。それゆえ、1990年の選挙で当選したカレン人は、NLDなどの他の政党との提携のもとで事務所を運営したのである。KNUは、本質的にはカレン人のための統一政府であり、抵抗の時代にあって有効な自己統治を行うことのできる唯一可能な形態であり、個別的な政党をそこに含んでいるわけではない。 だが、第3章で述べるように、われわれは民主主義者である。そして、民主主義によってカレン人の民主的価値観の長い伝統は保持されるのである。われわれには選挙の手続きがあり、われわれの会合は自由な開かれた場である。だれもが意見と批判を表明することができる。

2012/05/15

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(4)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の4回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき) 
初期政治史

現在われわれが経験している状況は、われわれとビルマ民族との歴史的関係に直につながっている。ビルマ民族には、狂信的民族主義の強い伝統があり、そのためビルマの他の民族集団は筆舌に尽くしがたい苦しみを受けることとなったが、この伝統は現在の軍事独裁政権においてはっきり現れている。

ビルマ人のそうした行動の例としては、モン民族の征服が挙げられよう。この征服以前、クメール人(カンボジアの主流の民族集団)の末裔であるモン人は下ビルマ全域にわたる王国を築いていたのである。1725年ごろ、あるビルマ人の将軍が、ハンタワディにあるモン人の城壁都市を包囲した。3ヵ月後、将軍は、3人の僧侶を遣わして、次のような提案を行った。入城と引き換えに、モン王はその地位と財産を保証される、と。王は同意した。そして、ビルマ人たちは入城し、王と住民すべてを虐殺したのである(それよりさきに、モンの兵のうちには、王の弱腰を知って、包囲を破り現在のタイにまで逃げのびた者もいたにしても)。

ビルマ人将軍は自ら王と名乗り、モン文化の根絶に乗り出した。彼は平和を議する特別会議にモンの僧侶3000人を招き、皆殺しにした(一人が逃亡しそれを伝えた)。それから彼はモンの僧院を書庫もろとも破壊した。

ビルマ人は事実、モン人から仏教を受け入れたのだが、初めのうちモン人は彼らに教えるのを拒んだのであった。しかし、11世紀にビルマ人はバガンからモン人を攻撃し(これがビルマ民族帝国の濫觴となった)、当時のモン王を打ち破り、パゴダの奴隷とした。

近年まで、ビルマ人はカレン人のことをほとんど気に留めなかった。カレン人は無教養であり、それゆえ脅威とならないと目されていたのである。われわれは根絶されるべきものではなかった。ただ下層に留めおくべきものであった。しかし、われわれが仏教徒となるのは禁じられていた。

こうした状況が変わったのは、1820年代のイギリス人の到来によってであった。実際、イギリス人はカレン人の目にとって、ビルマ民族帝国主義からの解放者と映った。しか し、イギリス人のもたらした実質的な影響は一般的には非常に小さいものであった。より大きな影響は、実際のところ、最初のアメリカ人宣教師の到来とともに訪れたのである。この宣教師の名をジャドソン博士という。

(注:ビルマ戦争の時代、カレン人は「重税を課され、ビルマ人支配者に抑圧されていた。このビルマ人によって、カレン人はペグーの田舎者からなる劣等民族だとひとからげにされていた。」さらに戦争中のビルマ人兵士たちは「略奪集団を成し、通り道にある無防備な(カレン人の)村を強奪し、火を放ち、たまたま行き交わす不運に見舞われた村人たち相手に不当極まりない残虐さを発揮した」同書、スノッドグラス)

注目に値するのは、イギリス統治下においてはカレンやシャンなどの山岳地帯の州が、ビルマ人固有の本土(ビルマ人行政区)とは異なる辺境地帯であると見なされ、(イギリスの直接統治下にあったビルマ本土とは対照的に)高度の自治を享受していたという事実である。ビルマ人の政治家にとって、こうした状況は屈辱的なものだった。

第2次世界大戦において、われわれは連合国と協力した。この協力ゆえに、われわれはビルマ独立軍(BIA)の手になる残虐行為の標的となった。1940年、30人の志士と自称するビルマ人指導者たちの集団が、日本人工作員の手助けにより、日本に渡った。さらに、彼らは軍事訓練のために中国の海南島に赴いた。そして、1941年、彼らはタイを占領した日本軍に同行し、BIAを創設したのであった。

日本人がBIAに約束したのは、戦争ののちにビルマは独立国となる、ということと、すでにタイに与えると約束したケントゥンとサルウィン川の東の諸州を除き、シャン州をも獲得することができる、ということであった(『わが消え去りし世界』ネル・アダムズ、サオ・ノアン・ウー著)。

イギリス軍がビルマから駆逐されるや否や、1942年初頭、BIAの部隊はイラワディ・デルタ地帯とパプン地区のカレン人民間人を包囲し、イギリスのスパイと非難して夜ごとに何百ものカレン人を殺しはじめた。カレン人は抵抗し、市民戦争が勃発し、これは6ヶ月続いた。最終的に、原因がBIA側の民族的偏見にあることを理解した日本当局が紛争を停止させた。

BIAはアウンサンの指導の下に結成された。しかし、残虐行為とそれに引き続く紛争が、彼がビルマ北部のミッチナーに長期の旅行に出て不在にしていた間に起きた。戻ってきた彼はこの出来事に衝撃を受け、ビルマ人とカレン人の間の友好のための運動を指導した。しかし、われわれとモン人は、パンロン合意から除外されたのであった。これは1947年2月12日にアウンサンとシャン人と国境地帯の他の民族 (カチン人とチン人)との間で署名され、最初のビルマ連邦を実質的に確立した合意であった(アウンサンはぜがひでも合意に署名したがっていた。彼は、カレン人にまつわるさまざまな問題にかかわって手間取るのを望まなかったのである)。

こうした歴史ゆえに、われわれはいまもビルマ人の態度に恐れを抱き続けている。かりにSPDCが打ち負かされたとしても、われわれはふたたびビルマ人の支配されることになるかもしれない、と恐れているのである。 それゆえ、われわれは、このような歴史がふたたび将来繰り返されないための手だてとして、すべてのビルマの人々が参加し、平等な諸州からなるという強力な連邦体制の理念を支持している。