2012/05/14

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(3)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の3回目。)

(2.カレン民族の歴史と文化のつづき)
価値観と儀礼

伝統的なカレンの村社会は、数々の核となる価値観をめぐって形成されている。それらに含まれるのは、精神的価値とそれに関連する社会的価値の双方であり、たとえば家族と共同体の重要性、年長者への尊敬、貧困者と障害者への配慮、両性間の高度の平等である。共同体形成に関しては、カレン人には確固たる民主主義的な伝統がある(「3.カレン民族の政治組織」を参照されたい)。

こうしたカレン人の価値観はまた同時にカレン人の儀礼にも反映している。 手をつなぐ儀式であるキー・スエがその一例である。年に一度、通常6月ごろ(太陰暦にしたがう)に、カレン人家族は僧院に集まり、子どもたちとその友人たちは染められた紐で互いの手首を結び、「ガラ」(精霊)の帰還を祈る。この儀式には、子どもたちとその友人たちを象徴的に結び付けるといったいろいろな目的があるが、より大きな意味としては、すべてのカレン人をひとつの民族としてまとめるためのものである。

アウ・ブワと呼ばれる別の儀式では、骨が拾い集められるが、これには2つの機能がある。存命中に非常な尊敬を集めたカレン人の長老は、その死後に火葬に付される(埋葬されるのではなく)のだが、この儀式が執り行われるのは、それから適当な期間(一年かそれ以上)を置いてからのことである。遺族たちは、骨のかけらを壺に集め、それを特別な埋葬地に安置する。そして、その夜に求婚の儀式が行われるのである。村の若い男女は向かい合いながら列を作り、それからカレンの音楽とともに、歌い、対になった独特の韻文で声を掛け合う。この儀式は、それがもたらす楽しみにくわえて、ふさわしい結婚相手を見つけるのに役立っている(カレンの夫婦は一夫一妻を守り、伝統的に結婚前の性交渉はない)。

もうひとつの伝統的な葬送儀礼は、ロエの儀式として知られている。この儀式においては、死者が埋葬された後に、その遺族や友人たちが、森の中の好ましいところなど別の場所に集まり、故人が次の人生で見つけ出し、使ってくれるようにと、家庭用具や籠などの所有物を置いておくのである。

他の年中祭事としては、12月あるいは1月に行われる新年祭、2月の収穫祭がある。ニー・ト・タウと呼ばれる新年祭は、祈祷、スポーツ、ゲーム、踊りが行われる共同体の祭りである。貧困者と恵まれない人々には特別の配慮がなされる。また、年に一度共同体を挙げて屋根の葺き替えが行われ、貧困者、あるいは配偶者を失った人には特別な援助が行われる。

カレン人の価値観は日常生活においても見て取ることができる。たとえば、長老たちは揉め事の解決に呼ばれるが、それはその知恵と経験に対する尊敬の証である。家族においては、母方の親類は年に一度集まって、家族をひとつにし、誰も欠けることがないようにと捧げものをする。大変な時期には、この集いは2年間延期することができるが、すくなくとも3年に一度は行わなくてはならず、さもなければ家族に大きな災難が振りかかると信じられている。

家族の中にあっては、長男もしくは長女は、両親の死までふたりの面倒を見なくてはならない。すでに述べたように、かなりの程度、男女は平等である(近隣のインド、中国、タイにおける女性に対するはなはだしい差別とは非常に対照的である)。女性は家計をつかさどり、女の子は男の子と同じぐらい褒められる。カレンの家族の目標は、両性の間のバランスを保つこと、男の子と女の子が同じ数だけいることである。

結婚に際しては、花婿の両親と長老は花嫁の家族を訪れ、婚姻の要求を行わなくてはならない。持参金の習慣はない。結婚式は花嫁の家で執り行われ、村中が招待され、徹宵して歌い踊る。

最後に述べるべきカレン人の価値観は、よそ者に対する歓待である。旅行者がカレンの村に到着したときに、村人が野良仕事に出ている場合は、その旅人はどの家に入って休んでもよい。そして、戻ってきた村人は、訪問者のために食事の支度をする。また、訪問者に不審の念を抱くこともない。いかなる詮索も無用とされるのである。

2012/05/13

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(2)

(カレン民族同盟(KNU)副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏とローランド・ワトソン氏共著のTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONの全訳の2回目。)

2.カレン民族の歴史と文化

文化史

カレン民族はモンゴルに起源を持ち、4000年ほど前にそこから移住をはじめた。われわれが中国を経由し、現在ビルマ、サルウィン川、イラワジ渓谷と呼ばれている地域に到達したのは3000年ほど前である。カレン人はその時代には民族としての一体感を持つに至り、その結果、独自の暦も使われるようになった。その暦によれば今年(2003年)は2742年となる。

1931年 に英国によって行われた最新のビルマの人口統計によれば、カレン人の数は140万ほどと見積もられている。しかし、これははなはだしく過小な見積もりである。調査そのものは、イギリス人に代わって、大部分はビルマ民族出身である役人によって行われ、われわれの信じるところによれば、彼らはカレン人仏教徒をビルマ民族として計算したのである。1942年には日本軍がカレン人口を450万と見積もっている。現在の人口は、800から1000万人の間にあると信 じられており、そのうちおよそ100万人がカレン州に住み、残りはペグーから、ラングーン、メルギ・タヴォイにまでいたるビルマ南部のデルタ地帯に広がっている。

(注:カレン州の境界は、ビルマ初代首相のウ・ヌによって決定されたものである。この州境は、カレン人が伝統的に生活してきた土地のうちのわずかな部分を含むに過ぎない。「道、もしくはその名に値するようなものは、この下部地方では全く知られていない。森の中をあちこちに伸びる踏み しだかれた小道のみが……あるのが分かるのみで、その道が、この土地を耕作しているカリアン族[カレン人]の頻繁に行き来するところとなっているのだ。」 『ビルマ戦争を語る』スノッドグラス少佐著、1827)

カレン人は歴史的に(現在も大部分がそうだが)、渓谷や、平野、山岳地帯に住み、農 業、狩猟、採集によって生活の糧を得る田舎の人々である。ビルマの南部と南東部に拡散した結果、下位集団が形成された。これらの下位集団は、ひとつには言語の違いによって区別されるが、この区分そのものは19世紀初頭のアメリカ人キリスト教宣教師の影響に端を発するものである。

カレンには、 ポー語とスゴウ語という2つの文字を持つ言語がある。これらはそれぞれヴィントン牧師とウェイド博士という2人の宣教師の協力によって作られた。これらの文字を持つ言語はより正確には方言として扱うことができる。というのも、双方とも同じ文法をもち、語彙の80パーセントが共通するからである。デルタ地帯にはポー語と スゴウ語の双方の話者集団がいる。山岳地帯にはブウェ語として知られるポー語の下位方言を使用するカレン人と、パク語として知られるスゴウ語の下位方言を用いるカレン人がいる。山岳地帯にはこれ以外にもさらなる文化的な多様性といくつもの下位方言が存在する。

カレン民族はまたカレンニー民族とも関係がある。カレンニー民族は現在50万から60万の間の人口をもつと見積もられており、ブウェ語を使用している。しかし、カレンニー民族は、カレン州のすぐ北に独自の州を持ち、また独自の文化と歴史を持つ点で、カレン人と区別される。カレンニー人は、領主をいただく封建的政治構造を持つ点で、さらに北にいるシャン民族と似ている(この領主はシャンでは藩王として知られる)。カレン人は平等主義者である。われわれは封建的社会というものを持たなかった。

カレン人は伝統的に、精霊を信仰するアニミストであった。しかし、この精霊信仰は、他のアニミズム信仰の社会によくあるように特定の自然精霊を複数信じるということに眼目をおいたものではなかった。そうではなく、カレン人にとっては水と大地と空の主人が偏在していたのである。さらに、ある最上の精霊が、水と大地と空を支配するという信仰があった。精霊の力をひとつの中心へと集めるこの伝統によって、カレン人は事実、宣教活動の影響のもと、キリスト教一神教へと容易に移行していったのである。現在おおまかに見積もって40パーセントのカレン人がキリスト教徒、40パーセントが仏教徒、残 りの20パーセントがアニミストとなっている。仏教徒の多さの一因となっているのは、仏教では伝統的な宗教行動の多様性が許容されているのに対して、キリスト教では逆に禁止されているということにある。

最後に、カレン州の名前であるコートゥレイについて述べるならば、これはしばしば「光の大地」と訳されるものの、さらに言葉通りに訳すならば「悪のない大地」となる。

ビルマのカレン民族とカレン民族同盟(1)

4月25日から5月4日にかけて、ビルマ連邦民族統合評議会(UNFC)の代表3人が日本の外務省の招きにより来日した。そのうちUNFCの副議長を務めるのが、現在カレン民族同盟副議長のデヴィッド・ターカーボウ氏だ。彼は現在のカレン民族の中でもよく英語で文を発表する人で、次に翻訳・紹介するものもそのひとつだ。この翻訳自体はずいぶん昔のもので、誤訳もあるかもしれないが、カレン人とKNUのまとめとしては分かりやすいと思う。原文はTHE KAREN PEOPLE OF BURMA  AND THE KAREN NATIONAL UNIONで見ることができる。


ビルマのカレン民族とカレン民族同盟
David Tharckabaw, Roland Watson
2003年12月

目次
1.カレン民族が社会的・政治的に目指すもの
2.カレン民族の歴史と文化
3.カレン民族の政治組織

1.カレン民族が社会的・政治的に目指すもの
カレン民族同盟(KNU)は、ビルマのカレン民族のための政治的組織であり、政府である。その基本目標は、ビルマ軍事独裁政権の手による大量虐殺に苦しんでいるカレン人に解放をもたらすことにある。この解放は3つの要素からなる。すなわち、食料や医療援助の形で人道援助を提供すること、自己防衛の手段を提供すること、そして、カレン人やその他の民族に対する虐殺行為、およびビルマに暮らす全国民に対して加えられるあらゆる人権侵害に完全に終止符を打ち、二度と起こらないようにするために、独裁政権たるSPDCを権力の座から引きずり下ろそうと勤めているすべての組織と協力すること、である。

さらにKNUは、SPDCとの誠実な対話と、民主主義への平和的移行を常に望んでいる。

また、KNUは抵抗政府以上のものであろうとしている。つまり、将来の民主主義連邦国家ビルマにあって、体制面においても機能面においてもしっかりしたカレン州政府を形成すべく努力している。

もっと一般的にいえば、カレン人は、ふたたび自分たちの村、畑、価値と文化を確立し、ビルマの他の民族と協力しながら平和に暮らせるように、ビルマ国内に社会的調和のある状況が生み出されることを切望している。

これらの目的と希望のすべてはコトゥーレイ州の憲法草案の前文に反映されている。

憲法前文

わたしたちカレン人は、友愛、統合、自由の精神に基づき、平和、安定、安全、社会進歩のために、この地の他の民族とともに(空白)連邦の一部となります。わたしたちは、自由、平等、自己決定権を求めるために、ひとつの民族としていかにわたしたちが激しく戦ったかを、そして、自分たちの基本的人権と、連邦制の枠組み内での自分たちの社会、文化、経済を自由に発展させるための権利を守ろうと、いかにきびしい覚悟をもっていたかを、けっして忘れることはないでしょう。

封建時代においては、わたしたちカレン人は、組織的にそして容赦なく弾圧され、収奪され、人間活動のあらゆる領域での前進の機会を奪われていました。抑圧と従属の体制がおわると、わたしたちは、勤勉に、そして自信をもって速やかな発展を成し遂げ、60年のうちに、持続的に発展する能力を持った文化的共同体となるに至りました。

しかし、ビルマがイギリスから独立すると、政治的未熟さと不寛容さ、そしてなによりも権力者たちの狂信的民族主義により、内戦がおこり、半世紀以上にわたる抑圧、従属、収奪の暗黒時代が到来しました。この暗黒時代において、すべての人が計り知れないほどの苦しみを受け、国は壊滅的な後退を余儀なくされました。

したがって、わたしたち、コートゥレイ州のカレン人、そして他州に暮らすカレン人は、この暗黒時代への回帰を避けるために、平和を愛好する他の民族と協力し、連邦の調和と安定、繁栄のためにつねに働くものとなるでしょう。

2012/05/11

謝罪

あるビルマ難民、Hさんから聞いた話。

Hさんは都内の飲食店に勤めているのだが、日本人の店長がけっこう厳しい人だった。

何かというとガミガミうるさい。Hさんは日本語は割に上手だったし、仕事の経験もずいぶんあったけれども、それでも店長の目から見れば不満な点もあったらしい。

それがこの間、インドネシアに長く旅行に行っていた店長が帰ってきた。彼は店にやってくるやいなや、Hさんにこう言ったそうだ。「外国人の気持ち分かったよ! 厳しいこと言ってごめんなさい!」

なんでも、言葉が通じないレストランに行って注文に困り、外国人の立場が身にしみて分かったらしい。

ありふれた話かもしれないけれど、その話をするHさんのうれしそうな様子に感銘を受けたのでここに記録する。

なお、店長はHさんに対してやさしくなったそうだ。

子をつれて

マノー祭りでは男性は刀をもって踊る。下の写真はその刀だが、雰囲気はあるがこれは本物ではなく、飾り物だとのこと。ま、本物の刀をもって東京の真ん中で踊れやなんかしない。

それに、飾り物とはいえ、刀の数は限られている。で、何を使ったかというと、チャンバラ用のおもちゃの刀。会場で一振り千円で売ってた。


高い。だが、お祭りへの寄付と思えば安い。もっとも、わたしは買わないことに決めた。すると、はじめの踊りが終わったときに、友人のひとりがくれた。

さて、昼食は会場でカチンの人たちが自分たちで作った料理を売っていた。フランクフルトが100円。焼きそばやビルマ風カレー、カチン風の弁当やデザートなどが500円ぐらいで売られていた。


その日は暑い日で、昼食タイムの間、参加者たちは公園の木陰に群がって、ご飯を食べたり、おしゃべりしたり、ぼんやりしたりしていた。子どもたちは刀を振り回して遊んでいる。ゴールデンウィークの初日だから、東京も静かだ。

日本人が運営したりすると、こうした休憩の間にもなにか音楽を流したり、小さなイベントを仕掛けたりして、せせこましく空白を埋めようとするものだが、カチンの人たちはそういうことをしないようだった。本当の無為の時間で、わたしはなんだかカチンの村にでもいるような気になった。


この日、カチンの友人が子ども用のカチン・ドレスを用意してくれるというので、わたしは4歳の娘を連れて行った。それで、帰るときのわたしは片手は刀、別の手に子どもの手という格好となった。気分としては「子を貸し腕貸しつかまつり候」というノボリでも立てたいところだったが、柳生烈堂の手のものが襲ってきたら怖いので諦めた。

2012/05/09

マノー祭り

カチン民族の伝統的祭事「マノー」が、4月28日東京芝公園で、在日カチン人と日本のNPOにより「マノーまつり」として開催された。

今回のマノー祭りにさいし、日本のNPOがマノーの専門家を招聘したということで、かなり本格的なもの。

祭りの意味やその内容に関しては、専門家に近く話を聞く機会があるので、そのあとに記そうと思う。

簡単にいえば、マノー・ポストと呼ばれる柱を立てて、その周囲を列を作ってぐるぐる蛇行しながら踊るというもの。その踊りは複雑なものではなく、男性は剣をもち、女性はハンカチを持って、小さく振りながら進むのだが、列そのものの蛇行の仕方が非常に難しくで、これが祭りの要、へたにやるとかえって災いが起きるとのこと。

祭りの開始は、10時から。開会式のあと、踊りが始まり、30分ほどの踊りのあと、お昼の休憩タイム。その後、もう一度踊りがあり、5時に終了という流れであった(とはいえ、わたしがいたのは、2回目の踊りのはじめぐらいまで)。

参加者は在日カチン人と日本側のNPO関係者ばかりでなく、在日ビルマ難民、日本の難民支援関係者、ビルマの研究者、国会議員など。日本のカチンの人々は難民問題や民族問題に熱心に取り組んでいるので、有力な支援者との協力関係をかねてから築いていて、そうした努力が今回の祭りの実現に繋がったのだろう。

踊りには基本的に誰でも参加できるようだが、列を乱したり、行列のリーダーの先に出たりしてはいけないようだった。

カチンの衣装に身を包んだ民主党の中川正春大臣。

マノーの行列が動き出す。






マノー・ポスト。模様には意味があり、
またこの渦巻きの通りに行進しなくてはならないという。



2012/05/08

アマゾネス(3)

もうひとつの話は、もしもカレン烈女伝があるとしたら、エントリー間違いなしの女性についてのものだ。

正確な年代については聞いてもなんだか分からなかったのだが、それでも1947年のカレン革命以後というからそれほど昔ではない。

NAW THA LU SAE(ノウ・タールーセー)という女性がいて、ビルマ軍に捕らえられて、乳房を片方切り取られるという拷問を加えられた。

痛手を負いながらもビルマ軍から逃げ延びた彼女は、激しい復讐心を抱いてカレン軍に身を投ずるや、軍を率いてビルマ軍と戦い、敵に大きな打撃を与えたという。

その戦いぶりは超人的なもので、ビルマ軍の撃つ弾は決して彼女に当たらなかったと伝えられ、ビルマ軍兵士は彼女を「片乳(ノー《乳》タロウン《一個》セイン)」と呼んで恐れたという。

この伝承はもちろん、カレン語の女性名(ノウ・タールーセー)をビルマ語で解釈したため、つまりスゴーカレン人の女性の名前の前につける冠称のノウをビルマ語で《乳房》を意味するノウ、タールーをタロウン《一個》と付会したために生まれたに違いない(「セイン」は《ダイヤモンド》の意でビルマ語名によく用いられる)。

カレン語の名前の意味がはっきりしないので、この程度のことしか分からないが、いろいろと調べてみれば、とても楽しい時間が過ごせるはずだ。

ちなみに、古代ギリシアに出てくる、弓矢を打つために片方の乳房を切り落としていたという女性戦闘民族アマゾネスも、その名称をギリシア語で「乳なし」と解釈したために生まれた伝説だという。

アマゾネスというのはスキタイの民族集団だということで、これがカレン・ビルマの伝承、しかもごく最近の伝承とどう関係があるか分からない。ま、おそらくないだろうが、ノウ・タールーセー伝承というのが、もっと古い伝承の焼き直しだという可能性だってある。となるとカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史—サバトの解読』が思い出され、話は全ユーラシアに広がることになる。

そして、こんなふうないかにも胡乱な珍説でも立証にはそれなりにたくさんの本が必要で、てことは結局儲かるのはアマゾンさんというわけ。