2012/03/30

8888のある夜の出来事

以下は、在日ビルマ難民助けあいの会(BRSA)会員のキンウー(KHIN OO)さんが、2010年8月に『平和の翼ジャーナル』第10号にビルマ語で発表した記事で、1988年の8888民主化運動の経験が生々しく語られています。

もともと難民認定申請用に作成された日本語訳に、わたしが手を加えてBRSA機関誌「セタナー第4号」に発表したもので、著者の許可を得てここに掲載します(当時の状況に関しては田辺寿夫さんの『ビルマ民主化運動1988』梨の木舎を参考にさせていただきました)。

8888のある夜の出来事

軍事政権の不正な経済政策、政治、支配体制のもと、国民たちは日々困難に直面していたが、その不満が高まりつつあった時に起きたのが、ポーンモウ事件だ。1988年3月13日のことである。

ラングーン工科大学のある西チョウゴン地区の喫茶店、サンダーウィンで三人の学生と4人の市民がカセットテープをめぐり喧嘩をしたのが発端である。ビルマ社会主義計画党政府の不正な法律により、喧嘩がまともに解決されなかったため、学生たちが立ち上がる事態となった。騒動が激しくなると、軍事政権の治安部隊は学生たちに銃を向け、大学構内にまで突入してきた。上層部からどのような命令があったのかは定かではないが、治安部隊を目の前にして、学生たちはますます抗議の声を強めた。軍事独裁政権がついにその正体を現したのだ。コー・ポーンモウはこのときラングーン工科大学で銃弾により殺害された。そして、もうひとりの学生コー・ソーナインも重傷を負い、数日後に死亡する。軍事政権の非人道的な行動により、このポーンモウ事件が発生した。軍事政権は反政府活動を主導するラングーン工科大学をかねてから敵視しており、それが今回の復讐的行為となって現れたのだ。

弾圧があるかぎり反発するのは人間の自然な姿だ。心を痛めた学生たちは屈することなく抗議活動を続けた。運動はラングーン工科大学からラングーン大学へと広がった。3月16日に軍事政権はインヤー湖畔の通りでデモを行う男女の学生たちに襲いかかり、水面が血に染まるほどの虐殺を行う。インヤー湖畔事件、あるいは赤い橋事件とも称される事件である。後に大統領となるセインルイン自ら鎮圧を指揮し、民話の中の人食い鬼の踊りにある「打って痛めつけろ、打って痛めつけろ、頭を狙って打つんだぞ、打って打って勝てば褒美ぞ」という歌さながらの残酷さで学生たちをはげしく弾圧した。軍事政権こそが人食い鬼と化したのだ。

学生たちから始まったこの民主化闘争に賛同し、これに敬意を感じていた国民たちも、やがて加わるようになった。運動が深まり広がったのだ。すべての国民があちこちで学生たちと団結し、その活動を支援し始めた。長い年月の間、軍事政権に裏切られ続け、経済的、政治的、社会的に苦しんでいた国民たちは、学生たちの訴える正義に共感し、希望を託したのだ。

7月23日、混迷する事態を受けて、政府トップのネウィンが党議長の辞任を表明した。だが、軍事独裁政権の最高責任者は、このとき国民に対してもっとも恐るべき言葉を投げつけたのだ。「今後、人々が集まって騒ぎを起こした場合、ただでは済まない。軍は発砲するときは、命中するように撃つ。空に向けて威嚇射撃などしない」

後釜に座ったのは悪名高きかのセインルイン(カレン人指導者ソウ・バウジーを虐殺したのも彼だ)。軍事政権トップとなったセインルインは、8月4日、ラングーン市に戒厳令を敷き、地方に駐留していた部隊1万人を呼び戻し、ラングーン市内に陣取らせた。

1988年8月8日、8が4つ並ぶこの日に、学生と市民たちはかねてからの計画通り、大規模な抗議活動をビルマ全土で開始した。が、軍事政権はこれにたいしはげしい弾圧を加える。ラングーンでは、マハーバンドゥラー公園前でデモを行う数千人の国民たちが全滅した。

当時各地区の学生、青年たちは、国民たちと協力して民主化要求デモを行おうと考え、シュエダゴン・パゴダへのデモ行進を準備していた。わたしもまたそれらの若者たちのひとりであった。

わたしたちは、深夜0時に北オッカラーパに集合した。そして、ビルマ軍の無慈悲な行いと、軍事独裁の悪について演説し、討論した。その後、同志である兄弟たちとともに、シュプレヒコールを叫びながらデモ行進を始めた。メラム・パゴダに着いた頃、わたしたちは兵士たちを詰め込んだ軍用トラックと並んで進みながら、「国軍の兵はわたしたちの兵、アウンサン将軍の教えは学生や国民を殺すためではない」と叫び、軍の歌を歌った。8月だったので、雨が降っていた。わたしたちは前もって準備したアウンサン将軍の写真、タキン・コー・ドウフマインの写真、旗を掲げながら、4列になって整然とデモ行進をしていた。「社会主義計画党政府はいらない! 独裁政権をただちに廃止せよ! セインルイン政府はいらない! 我々は民主化を成功させる!」などと叫び続けた。

深夜1時に、北オッカラーパから、カバーエイ・パゴダ通りに着いた。そのとき、精神病院のほうから軍用トラックがパーラミ市のほうへと猛スピードで走っていくのを見る。わたしたちのグループも行進するのが難しくなる。「デモを止めて、バラバラになって来た道を戻るのだ、帰れ!、5分以内に言う通りにしなければ発砲するぞ」とセインルインの軍隊が命じた。わたしはそのとき旗持ち部隊のひとりとして先頭集団にいた。厳しい顔で軍を睨む。まぶしい照明の中、銃剣がきらめき、くっきりとその細部が見えた。

わたしたちはといえば武器などなかった。旗竿で立ち向かうのがせいぜいだ。あとはアウンサン将軍の写真ぐらい。結局は逃げるしかなかった。

兵士たちは武器を片手に追いかけ、逮捕しようとした。わたしは当時21歳、走って逃げることができたが、子どもや年配の男女はそれも難しかった。わたしは北オッカラーパの路地に逃げ込んだ。足音で、兵士が5人ほど追ってきているのがわかった。みんな周囲の民家に逃げ込んでいた。わたしもある家に助けを求めたが、人で一杯で入れてもらえなかった。別の家を探している余裕はなかった。安全な場所を見つけて隠れるほかなかった。そこで、その家の軒下に潜り込んだ。膝上まで泥水に浸かった。これではもう走れない。頭の上でどたどたと足音が聞こえた。軍人たちが家に上がり込んだのだ。窓を開く音、家の持ち主たちを怒鳴りつける声。軍人たちは部屋に入り込んで、蚊帳を引きはがして隠れている人を捜していた。やがて2階に匿われていた人たちがみんな見つかってしまった。引っぱり出されて、軍用トラックに載せられるのが聞こえた。軍靴で蹴る音、軍帽で叩く音、さまざまな音が聞こえた。いよいよわたしの番だ。軍人たちが家の下を照明で照らしながら探しはじめたのだ。泥の中にじっとしていることができずに逃げ出そうとした人々は、みな軍人たちに捕まってしまった。わたしはといえば、仰向けになって全身泥に浸り、鼻だけ外に出して呼吸をしていた。そうやって30分ばかりじっとしていた。生まれてはじめての経験。恐怖のあまり、心臓が破裂しそうだった。今捕まったらどうなる? そんなことばかり考えていた。やがて軍用トラックが出発する音が聞こえた。だが、まだ安全とはいえなかった。真っ暗闇でなにもわからない。40分ほど経ってから、ようやく隠れていた人々みんなが外に出てきた。それぞれが自分たちの経験を語った。わたしは情けなくて笑ってしまった。

9日の朝から、銃撃の音が鳴りはじめ、激しさを増していった。軍はまるで悪魔に呪われたように人々を殺していた。しかし、その最中でも、緑の制服をまとった学生たちがアウンサン将軍の写真を胸に抱いて勇敢にデモ行進を続けていた。デモが止む気配はなかった。決死の覚悟でデモに参加する人々の勇士のような精神が人々を駆り立てていたのだ。

デモは全国に広がっていた。8888民主化要求が爆発したのだ。これを押しとどめることは不可能だった。人食い鬼の歌とともに登場した大統領セインルインは、8月12日に退陣することとなった。その後、8月26日、わたしはシュエダゴン・パゴダ西門広場の集会でアウンサンスーチーさんの微笑みを見た。ビルマがこの民主化の微笑みをいつでも見られるような国になってほしいと祈りながら、筆を擱く。

失われるべき10年 and more

先日、在日チン民族協会(CNC-Japan)主催の無国籍問題のワークショップについて書いたが、日本国籍取得(帰化)の話題も出た。どうしてこれが問題になるかというと、それが無国籍の子どもが国籍を取得する手段のひとつだから。

もちろん、日本国籍取得というのは容易ではない。日本人と結婚した外国人ですら苦労させられると聞くから、オーバーステイの後に難民認定申請し在留を認められた人にとってはさらに難しそうだ。

難しそうだというのは、実際例がないためだ。いや、ビルマ難民で帰化したという人はいる。だが、それはあくまでも噂のようなもので、実際に名乗り出ている人はいないともいう。これにはいろいろな理由が考えられるが、ま、要するに数が非常に少ないということだろう。

それはともかく、ワークショップでチン民族のある男性が話してくれたのだが、帰化申請のため法務省の窓口に行ったとき、こんな風に言われたそうだ。

「あなたの場合は、10年経ったらきてください」

この「10年」で会場は盛り上がった。これはオーバーステイを埋め合わせるものなのか? それとも難民は誰でも10年待たなくてはならないのか? そして、その年数は法的に何を根拠としているのか? 人々の疑問はこうしたものであったが、わたしを含めて誰にもこれに答えられるものはいなかった。

「ひょっとして対応に出た職員が意地悪な人だったのかもしれないよ。10年といえば、すごすご引き下がるかと思ってさ」と誰かが言う。

わたしはひそかに思う。「しかし、その法務省職員てのが実は一番やさしい人で、他なら20年のところを大負けに負けてくれてたりして……」

2012/03/07

ある母親の話

さて、CNC-Japanの無国籍問題に関するワークショップで、自分の体験について話してくれた会員もいた。次はある母親の話をまとめたもの。

わたしは1990年代はじめに4歳の息子を連れて、日本にやってきました。日本語がわからず、2人での生活は大変でした。

チン民族はそのとき日本にいましたが、難民認定申請する人はいませんでした。ビルマ人はそのころから多かったのですが、わたしたちは難民申請についてよく知らなかったのです。

また、当時は難民支援をしている団体についても知らず、何も分からないままに、生活のために朝から晩まで働き詰めでした。

子どもは4時間だけ預けることができましたが、わたしは迎えにいくことができないので、わたしの親族が代わりに迎えにいってくれました。そして、息子はわたしが帰ってくるまで1人きりで待っていたものでした。

子どもの教育も何一つ満足にしてあげられませんでした。わたしは母親失格です。今は、わたしも、そして後からきた夫も難民として認められましたが、現在23歳になるわたしの息子は、無国籍です(注:日本で生まれたのではないので、おそらくビルマで正式に国民として登録されていないということだろう)。

この状態を変えるためにはどうしたらよいでしょうか?

2012/03/06

無国籍の子どもたち

在日チン民族協会(CNC-Japan)が3月4日の夜、会員向けに無国籍問題に関するワークショップを開いた。

わたしはCNC-Japanの人とちょっと打ち合わせすることがあって、たまたま会場にやってきていたのだけど、「どうぞ」と言われたので、そのまま参加した。

無国籍問題というのは最近注目されてきた問題で、ビルマ難民に当てはめれば次のような場合がよくあるケースだ。

ビルマ難民同士で日本で結婚して、子どもが生まれた場合、政治難民なのでビルマ大使館では出生手続きができない。しかし、かといって、ビルマ難民が日本国籍を持つことはとても難しいので、出生届は出せるが、生まれてきた子どもは日本国籍を取れない。つまりどこの国籍にも属すことができない、無国籍となる。

もちろん無国籍だからといって、いろいろな面で不都合が生まれるわけではない。多くの無国籍の子どもたちが保育園から大学までいるし、少なくとも教育の点ではひどい不利益を被っているとはいえない。

ただ、ひとつ問題として指摘されるのが、外国に行くときで、無国籍の人はパスポートがないため、再入国許可というのが必要で、いろいろと面倒くさい。今時の中高生は修学旅行だ、語学留学だで日本を出ることも多いから、子どもによっては厄介な思いや、つらい思いをするかもしれない。

しかし、本当の問題が生じるのは、学生時代の後だ。例えば就職。無国籍だと就職が制限されるのではないか? それから、国籍を持つ親元を離れて、独り立ちしたときに何が起きる? 銀行、クレジットカードは大丈夫か? 結婚するときには? 子どもが生まれたら? あるいは、帰化することができるのか? それとも一生無国籍のままなのか?

親たちは、難民認定申請の結果、難民認定されたり、 在留許可を得たりして、一応の生活の安定を得たものの、自分たちの子ども、無国籍のまま成長している子どもをみるにつけ、心配にならざるをえない。将来になにか不都合が起きるのではないか、あるいは無国籍が障害となって望むような人生が生きられないのではないか……。

1988年の民主化運動以降、日本に逃げてきた人たちが、結婚し、子を生み親になった。これらの子どものうち最初の頃の世代、つまり1990年代はじめに生まれた子どもたちは、もう成人を迎える年頃だ。

もちろん、日本には昔から無国籍の子どもたちについて似たような問題があっただろうが、ビルマ難民の文脈では、無国籍問題とは今まさに難民たちが直面している熱い問題なのだ。

そして、CNC-Japanは会長のCin Lam Lunさんをはじめとして、無国籍の子どもの親である会員が結構多い。そんなわけで、CNC-Japanはしばらく前からこの問題に熱心に取り組んでいて、今回のワークショップも、その延長線上にある。

ワークショップの講師を務めたのはビルマ市民フォーラムの先生で、わたしはこの問題についてはよく知らなかったので勉強になった。ちなみに日本には1,200人の無国籍の子どもがいるそうだ。

しかし、質疑応答での「では具体的にどうしたらよいのか」という難民たちの切実な問題に関してはうまく答えられないようだった。

これはなにもこの講師の方が勉強不足なのではなくて、問題が新しく、情報の蓄積・共有があまり進んでいないため、いわば誰にも答えることができないのである。

講師の方が「無国籍ネットワーク」という団体を紹介していたが、こうした団体に色々な経験や情報がいずれ蓄積されるはずで、しばらく経てば、この問題ももっと取っ付きやすくなるに違いない。

2012/02/24

便りのないのは

保証人をしているアラカン人の難民認定申請者が電話をかけてきた。仮放免許可延長の手続きで品川の入管に出頭することになっているが、ついてきてほしいというのだ。

「もしかしたら収容されるかもしれないです。ちょっと怖い」というので「いや、僕がついていっても収容されるときはなんにもできませんよ」

それに、入管に行ったら半日潰れちまう。しかし、彼は食い下がった。

「一緒に来てくれると、すごいパワーあるから、安心です」

知らぬうちに高い徳を身につけていたようだ。さっそく占い師でも。しかし、どんな神通力の持ち主でも、入管の前では無力なのだ。

ビルマにはウェイザーと呼ばれる超能力者がいる。『ビルマのウェイザー信仰』(土佐佳子著)という本も出ているが、なんでも空を飛んだり、不死身だったりするらしい。

だが、このウェイザー、何年か前に品川に収容されてた。思わず笑った。ビルマの霞食系男子も我が国の入管には敵わんというわけだ。

それはともかく、わたしは彼に「行けそうだったら連絡しますよ」と適当なことを言って電話を切った。問題の先送りだ。時間稼ぎだ。彼は一年以上も入管に収容されていたため、すっかり弱気になってしまっていた。その気持ちはわかるので、無下に断ることもできなかったのだ。

さて、彼が出頭する日が来た。午前中早く行くといってた。わたしは午前9時過ぎに彼に電話した。しめた。出ない。行くつもりでしたが、電話にお出にならなかったので……うーん残念、残念でしたな! いけしゃあしゃあと。こりゃいい。

しかし気になるので、しばらく立ってからかけ直す。出た。入管にいるという。7階だ。収容所の崖っぷちだ。相手は声をひそめながら、後でかけます、と。は、では、お待ちします。

それから待てど暮らせど、電話が来ない。もしかして、ほんとにそのまま収容されたんじゃ? 一番イヤなパターンだ。電話よかかってこい。そしてわたしを罵ってくれ! 

「お前なんかいなくても、ダイジョブだったわい! この優柔不断の腹黒のトントンチキのコンチクショーめ!」(ちょっとお見かけしないうちにずいぶん日本語が上達したようで)。

だが、実際にあり得るのはむしろその逆だ。入管の面会室で、アクリルガラスを挟んで彼はいかにも善良そうに微笑みながら、わたしに感謝を繰り返すだろう。こいつはいたたまれない。

もうすぐお昼になろうとしてる。わたしはしびれを切らしてもう一度電話をかけた。出た。電車に乗っているという。その後わたしたちは一緒に昼飯を食べた。

2012/02/23

肉はまだか(Meat Is Murder)

すでに書いたようにビルマに帰国する人に日曜の夜にごちそうになったのだが、なぜか肉の話になった。

ビルマの人は、といっても民族や住んでいる場所によっても異なるが、あたかもどんな肉でも食べるかのようだ。

ウシ、ブタ、ニワトリはもちろんだが、シカ、ヒツジ、ヤギ、シカ、ネズミ、カエル、ヘビ、トカゲ、サルなどさまざまだ。

ネズミは、町のネズミではなく、田んぼで収穫前の米を食べて太ったヤツで、丸焼きにして食べるというが、わたしは食べたことはない。

トカゲやサルはカレンの人が好む食べ物で、ビルマの他の場所ではあまり普通ではないのではないか。わたしはすでに食べたことがあり、トカゲは固い鶏肉のようだった。サルはカレンの食べ方では内蔵の煮込みのようなもので、かなり癖のあるにおいがするがおいしい。

また、あるカレンの人から、イヌを食べて皮膚のアレルギーがすっかり治った、という話も聞いたこともある。

東南アジアでは多くのゾウを見かけるが、これを食用にするのかどうか、かねてから疑問に思っていたので、別のカレン人に聞いてみたら、やはり食べるとのことだった。ただし、どのように食べるのかは聞かなかった。しかし、ゾウは食べる以上の使い道があるので、これを食べるのは特別なことに違いない。

その夜話題になったのは、ネコの肉だ。どうやら、山に住むネコのようで、食べると体が熱くなるとのことだ。

もっとも、たいていの肉は食べると体が熱くなる(ように感じる)ものだが、それはともかく、先に触れたイヌと同じく、おそらく何らかの薬効を期待して食べるものなのかもしれない。

さて、聞いた限りでは、ビルマでは動物の肉を生で食べるのは普通ではないようだ。2003年にビルマに行ったとき、カレン人の友人が「生肉を食わす店があるから連れてってやる」というのでドキドキしていたら、翌日「当局に目を付けられて閉店してた」とあっけない成り行きで、店からしてナマモノだったご様子(生肉だけに店長の逃げ足も速かったとか)。

2012/02/22

ノー・サレンダー

わたしが身元保証人をしている人が、難民認定申請を取り消して、ビルマに帰る決意をした。

「大丈夫か?」と聞くと「大丈夫」というので、大丈夫なのだろう。もっともわたしは他の申請者も、この人と同じように大丈夫であるというつもりはない。難民認定申請者にはそれぞれの事情がある。たまたまこの人にとって帰国せざるをえない、あるいは帰国できる条件が整ったというだけのことだ。

それはともかく、帰国を間近に控えた彼が、それに伴ってじきに彼の身元保証人の役目から放免されることになるわたしに礼をしたいというので、2月19日のチン民族記念日式典の後、大塚の中華料理店でで鴨肉やら、豚肉やらをごちそうになった。

ビルマに帰国するためには、入管ばかりでなく、ビルマ大使館での手続きも必要になる。

その手続きのうち、悪名高いのが税金というヤツで、海外に居住するビルマ国民は、滞在国のビルマ大使館に月収の1割の税金(あるいは月1万)を納めないとならないというものだ。

たいていのビルマ国籍者は10年20年と滞在しているわけだから、相当な額に達する。もっとも、額面通り支払わされるケースはあまりないようだ。多くて数十万というところだと思う。なんにせよ、これを支払わないと、パスポートを更新してもらえない、つまり、帰国できないという仕組みになっている。

このシステムは各方面から批判の対象となり、またそれゆえにビルマ大使館のことを「税務署」と揶揄して呼ぶ人々がいるわけだが、昨年の8月以降、収入の2%で十分と、かなり減税されたという。

しかも、帰国する人が言うには、入管に収容されていた期間は税の対象にならない、とのことで、わたしが思っていたよりも余計な出費はしなくて済んだようだった。

もうひとつ変化がある。

以前は、彼のような政治難民がビルマ大使館で帰国手続きをすることを「サレンダー」と言ったものだった。つまり、反政府活動などという「けしからん活動」をしたことを悔い改め、心から恭順の意を示して、ビルマ政府に降伏する、というわけで、実際に「もう政治活動などはしません」という誓約書を書かされる。

しかし、もはや(あるいはいまのところは)こうした誓約書は廃されているとのこと。彼によれば、日本でどのような政治団体に所属していたかは話したが、 そのような誓約書にサインするようなことはなかったという。すなわち、もはや「サレンダー」ではないということだ(もっとも大使館で報告した政治活動歴が将来悪用されないとは限らないが)。

わたしは国外のビルマ難民が帰国するにあたって、ビルマ政府は税などとるべきではなく、それどころかその難民生活による不利益・辛苦に対して補償すらすべきであると思うが、そうであるにしても、帰国手続きが敵対的なものではなくなっているのは良いことに違いない。