2015/05/23

牛久なる国境 [7日目]

現在品川に収容されている人々について話したが、牛久にも収容されているビルマ人難民が少なくとも3人いる。

3人とも男性で、わたしはそのうちの2人の身元保証人をしている。

そのうちの1人は、間違ったことがきらいな人だ。

彼は入管の職員が自分に正しくない扱いをしたと怒っている。

彼は自分を診察した医者が不正をしたと怒っている。

彼は外にいる自分の友人が当てにならないと怒っている。

面会の間中わたしが聞かされるのは、いかに彼が不公平な扱いを受けているかの話だが、そうした話にうんざりしないほどわたしは公平な人間ではない。

人間にとって正義なり公平が意味があるのは、他者の正義なり公平のために働いている時だけだ。ときには自分の正義のためだけに働いているように見える人がいるけど、そうした行為が意味を持つ場合はつねにその自分が同じような状況にある他者と繋がっている。

それは正義・公平という概念そのものに類的性質(集合性・複数性)が前提されているからで、それだからこそわれわれ人類は対話と対立を繰り返しながら正義という概念を発展・拡大させようと努力している(ただし安倍首相とその取り巻き連中とISは除外)。正義とはまだ見ぬ正義込みの正義というわけだ。

これに対して、そのような他者に繋がらない正義は、正義に見えるけれど、実は正義とはまったく関係のない現象、あるいはむしろ不正義といってもよい代物で、しばしば独善とも言われる。

わたしはおそらくさまざまに不公平な扱いを受けてきたに違いない彼のことを独善と責めるつもりはないが、ただそうした考え方では入管ではつらいよとだけ言いたい。

彼は不眠に苦しみ、じんましんに悩まされている。

自分が理不尽な使いを受けたことが悔しくて眠れないのだ。その怒りが赤いポツポツとなって体中に現れているのだ。

「自分が正しいことを考え過ぎるのがよくないかもしれないんですけど」

彼だって分かってるのだ。

自分のために怒るのではなく、他者のために怒るがよい。

そうすれば、他者のために何をすべきか考えるのに忙しくて怒ることも忘れてしまうだろうから。

そうはいっても、人間は自由がなくては
健全ではいられません。