2013/12/13

翡翠と傲慢

カチン州は森林資源,翡翠・金・宝石などの地下資源に恵まれているため,とてつもないお金持ちのカチン人もいる。

日本の入国管理局は在日ビルマ人をまずはたいてい貧乏国からやって来た出稼ぎとして扱うが,あるカチン人にはこれがカチンと来た。

「わたしの家はお前ら入管職員の誰よりも大きいんだ。バカにするな」

しかし,そうした立派な家も迫害のために捨てて逃げて来ざるをえないのが政治的亡命のつらいところ。挙げ句の果てには,軍に奪われてしまったりしている。

今年の2月にヤンゴンを訪問した際,あるカチン人がわたしを夕食に招待してくれた。その人はカチン難民の支援活動をしていて,衣服や医薬品を集めてカチン州のキャンプに届けたりしていた。

その人は夕食の前にちょっと寄るところがある,と言って車をとある閑静な住宅街に止めた。白い塀で囲まれた豪邸が建ち並んでいる。

そのひとつに暮らす裕福なカチン人に支援金のお願いをしに行ったのである。

わたしは後をついていったが,庭先にいくつも転がる巨大な翡翠の原石に驚いた。この岩ひとつでいくらするのか。

使用人らしき女性が出てきて,主人は不在だと告げる。引き下がるほかはない。わたしは門を出ると「この岩,ひとつぐらい持っていってもいいんじゃないでしょうか」と言った。

別のカチン人だが,有名な金持ちで,その人の20代の娘が日本に来た。わたしは彼女を招へいする際の身元保証人として協力したのだが,彼女はわたしに礼ひとついわない。それどころか追っ払おうとする。

わたしは悔し涙を飲みながら,「尊大な人間に近づくのはその人の葬式のときだけ!」と心に誓ったのであった。




不愉快な思いをしたのはわたしばかりでない。今年の11月のマナウ祭でも別の日本人が彼女を招へいしたのだが,いろいろ無理なことをしてその日本人を困らせたと聞いた。

金を持ちすぎると,人を人とも思わなくなるもののようで,もしかしたら,2月も居留守を使われたのでは,とわたしは邪推している。

とはいえ,大多数のカチン人は貧しく,そして,つましい暮らしを喜ぶ人々だということを,最後に一応強調しておきたい。

2013/12/11

漢字

エーヤワディ管区の町,ピンユワで見かけた映画のポスター。漢字に見えるビルマ文字のデザインがかっこいい。

セボレイッ(2)

このセボレイッは,日本のビルマの店でも手に入る。

わたしは以前はこの葉巻をよく吸っていた。今は子どもがいるので喫煙の習慣はきっぱりと,微塵の未練もなく捨て去ったが,ビルマに行くと吸いたくなる。

わたしが日本で買っていた頃は10本の包みで300〜400円していたように記憶するが,ビルマ国内では4本100チャットぐらい,つまり1本2.5円ほどだ。

2月にビルマに行ったとき,このセボレイッが無くなったのでホテルを出て,どこの街角にもあるタバコなどを扱う露店に買いにいった。

こうした店ではタバコでもセボレイッでもバラで売るのが基本で,わたしが見つけたその店でも数本のセボレイッが瓶に入れられていた。

わたしは店の人に指で1本くれと示し,1,000チャット札を出した。

店の男性が何か言ってくる。釣りがないというのだ。

あいにく1,000チャット札しかない。わたしが諦めて立ち去ろうとすると,彼は「持ってけ」と1本差し出したのである。

些細な出来事だが,笑わずにはいられない。しかし,これは普通のビルマの人々の姿でもある。

日本に帰ってきて,このことをBRSAの会員に話したら,けっこう気に入ってくれたようだった。

セボレィッ(1)

ビルマには普通の紙巻きタバコのほかに,セボレィッと呼ばれる独特な葉巻がある。長さは10センチほどで,紙巻きタバコと同じくらい愛好されている。

セボレイッをまれにチェルーと呼ぶ人がいて,わたしは別名かと思っていたが,これは英語のcheroot《両切り葉巻》であるようで,もしかしたらわたしに英語で言い換えてくれていたのかもしれない(ただし,英語の発音はシェルート)。

cherootというのは英語らしくない単語で,語源を調べてみたら,南インドのタミール語の《(タバコの)一巻き》に由来するという。

確かに,インドのタミール州でわたしはセボレイッよりも細く短いが似たような葉巻を見たことがある。

ビルマの文化はインド文化にいろいろな影響を受けているから,2つのcherootの間には単なる単語上の繋がりを越えた実質的なものもあるかもしれない。

2012年6月のライザで。

アラカン民族の踊り

11月8〜9日に芝公園でカチン民族の伝統的祭事マナウが行われたが,9日の午後には他の民族の歌や踊りもステージで披露された。

アラカン民族は,政治活動家のゾウミンカインさんがその伝統舞踊をステージで英語で紹介したのだが,その通訳を急に頼まれた。

もっとも彼は話す内容を印刷していて,わたしはそれを参照することができたので,それほど大変ではなかったが。

その紹介によれば,この場で披露されるアラカン民族の伝統舞踊とは,ロウソクを両の手の平に持って優雅に女性が踊るもので,ブッダへの崇敬の念を表すものだという。

また,踊り手である女性の身につけている衣装もアラカン民族伝統のもので,黒いショールや髪飾りの花も特徴的なのだそうだ。

短いビデオを撮影したので,どのようなものか分かるかと思う。

(分からないと思うが,踊りの音楽がちょっとだけThe Kinksの名曲"Muswell Hillbilly"を想起させる……わたしはこうやってわたしなりにThe Kinksを宣伝して,活動を再開させようとしている。)


大いなる神秘

今年の9月下旬,品川の入管に収容されている3人の在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)会員の身元保証人となり,仮放免許可申請をした。

結果が出たのが,ひと月後の10月下旬で,3人とも不許可だった。

原因としてはいろいろ考えられるが,ひとついえるのは,早すぎた,ということだ。

つまり,2人は6月に収容された人で,申請時には3ヶ月過ぎたころ。もう1人にいたっては9月に収容されたばかりだった。

仮放免許可申請には適当な頃合いというものがある。これは時期や収容所によって異なり,部外者にははっきりとは知ることのできない入国管理局の大いなる神秘のひとつだ。

しかし,その神秘にたゆまぬ努力で近づこうとしている人々がいる。それは入管収容所の問題に取り組んでいる団体の人々で,これらの人々は,収容されてからある期間の間に出された仮放免許可申請が通りにくいということを経験から知っており,その事実を通じて,どれくらいの時期に申請すべきかを,絶えず予測している。

わたしはこれらの人ほど詳しくはないが,さすがに収容されて1ヶ月で出した申請が通らないことぐらい想像はつく(難民認定申請者の場合は,少なくとも一次審査の結果が出てからのようだ)。

しかし,それでもわたしが(というかBRSAが)仮放免許可申請をしたのには,2つ理由がある。ひとつには,それが被収容者の意志であり,同時に生きる希望でもあるからであり,もうひとつは品川で仮放免許可申請をしている間は茨城県牛久の収容所に移送されることはないからだ。

牛久に収容されたら,面会や申請ははるかに面倒になり,また収容も長期化する……少なくとも1年は見なくてはならぬ。

そんなわけで申請したわけだが,ダメだった。その後,BRSAの役員と話し合った結果,わたしもビルマ行きで忙しく,12月初めにもう一度申請しようということなった。

ところが,11月末に2人が牛久に移されてしまった。

そして,品川に残ったもう1人はというと,11月の初めに彼は入管からわたしに電話を掛けてきて,身元保証人を別の人に頼んでもう一度申請すると伝えてきていた。

つまり早めに再申請したため,品川に残ることができたのである。

わたしは他の2人の申請をもう少し早くしていれば,牛久に送られることなく品川から外に出してやれたのに,と申し訳なく思ったのであった。

ところが,先週,品川入管に行き,残ったもう1人に面会したさい,驚くべき事実が明らかになった。彼は確かに別の人に身元保証人を頼んだが,その人は入管問題に詳しい人で,まだ申請には早すぎると判断し,12月頃に申請する予定でいたのである。

「どうして自分は牛久に送られなかったのか……」とその被収容者,首をひねってた。

わたしも首をひねると同時に,再申請の時期に関するBRSAの判断は必ずしも間違っていたわけではなかったのだ,これで牛久に送られた2人に対しても多少の申し開きもできると,ほっとしたのだった。

しかし,おお,それにしても,入管の大いなる神秘よ。どうかこれ以上われわれを翻弄することのないように……。

2013/12/10

ビルマ・コンサーン事務所

御徒町のビルマ・コンサーンの事務所を,この間,12月1日の日曜日,同じビルの3階から2階へと移した。

引っ越しは,BRSAの会員を含む何人かの友人が手伝ってくれて,ありがたいことにその日のうちに終わったが,書類の整理や,インターネットの接続やらまだまだやらねばならないことがある。

それはともかく,広さは2倍で,ミーティングやちょっとした集会にも使える程度の余裕もあるので,来年はとにかくいろいろな企画を行おうと思っている。

ビルマ・コンサーン事務所を開いたのは2009年12月のことで,現在までなんとか続けてていられるのは,多くの人々の支援,特に共同事務所として協力してくれている在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)と在日チン民族協会(CNC-Japan)のおかげだ。

賃料も少々高くなったので,ビルマ関係の他の団体にも呼びかけて事務所としてシェアしたいと考えている。

事務所を最初に設立したとき,今はアメリカにいる共同代表のタンさんが,チン民族の牧師を連れてきて,オープニング・セレモニーを行った。

それはまったくチン民族流で,お祈りを捧げながら壁や床を叩くというものだった。

なぜ,叩くのか。それは悪霊を追い払うためだ!

ゆえに窓は全開。お祈りやら「バン! バン!」が丸聞こえで,悪霊より先にこっちが大家さんに追い出されるのではとヒヤヒヤものだった。

ま,大家さんもありがたいことに理解のある方だった。

だが,あのとき追い出したはずの悪霊,2階にいるなんてことはないだろうな……。