難民認定申請者の中には入管に収容される人がいて,そこから出るためには,身元保証人を見つけ,仮放免の許可を貰わなければならない。
身元保証人は別に日本人に限ったものではないが,見つけるのはなかなか難しい。多くの人々はそれで苦労している。
在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はビルマ難民の会員のために身元保証人を引き受け,仮放免申請をするという活動を続けている。
身元保証人を引き受ける,といっても,今,会でそれをするのはわたししかいないので,ほとんどの場合わたしが身元保証人となる。
で,現在,20人ぐらいの身元保証人をしている。
これは多いように見えるが,100人もやっている人もいるというので大きな顔はできない。この人は教会関係者で,ビルマだけでなく他の難民のも引き受けている。
一般に,難民支援というものでお金をもらっている人は,不可解なことに,たいていこの身元保証人というものをしない。
こうしたものをするのは被収容者の知り合いや身内,あるいはわたしのような普通の人々か,入管問題か何かの活動家か,宗教関係者で,難民支援の分野でお金を貰っていることはまずない。
お金を稼ぐことがプロの証明なら,身元保証というのはアマチュアの業ということかもしれない。
プロから見れば,難民支援のまねごとと冷笑されるようなことかもしれない。
もしそうでなければ,つまり,難民支援の本質的な仕事のひとつと見なされているのならば,当然これらの人々や団体が率先して取り組んでいるはずで,身元保証の畑はすっかり刈り取られてしまい,わたしなどが慌てて出かけていっても落ち穂の一本も拾えやしないだろう。
身元保証や仮放免申請には特別な技術も経験もいらない。書類を集めて提出するだけだ。人権論だ支援技術論だなどということを知らなくても誰でもできる(実際にわたしも知らない)。おそらくこれが難民支援のプロにとってはばかばかしく思えるのだろう。
これらの人々が身元保証をしない理由については他にも色々考えられる(例えば組織的な理由とか)が,わたしには本当のところは分からない(ただし弁護士は,契約関係のある依頼人のためにこれをすることがある)。
なんにせよ,わたしはこの身元保証に自分の人生のかなりの時間を費やしているのだが,難民支援という観点からしたら実はとんでもなく無意味なことをしているのではないかとひそかに疑っているのである(もっともわたしは難民支援家ではないが)。
ある夜のこと,都内のアパートの一室に3人のビルマ難民が居合わせることになった。そのうち2人はそこの住人で,もうひとりは名古屋から来た人で,そこに宿泊していた。
3人とも難民認定申請中で,入管に収容された経験もある。住人のひとりと名古屋から来た人は以前からの知り合いだった。それで,住人が名古屋から来た難民に尋ねた。「身元保証人は誰?」
彼はわたしの名前を答える。
すると住人,「あー! それはわたしの保証人だ!」
するともうひとりの住人が驚いた。「なんだ! わたしもだよ!」
みんな大笑いだ。
意味はないかもしれないが,笑い話の種にはなったというわけだ。
難民支援のプロから見れば,身元保証も,またこのエピソードも無意味なことかもしれない。しかし,こと生きることにかけてはプロもアマチュアもあったもんじゃない。それはひとつしかない。そして,そのたったひとつしかない生きることに関わる限りにおいては,どんなことにも何かの意味が生じる局面があるということだろう。
身元保証人は別に日本人に限ったものではないが,見つけるのはなかなか難しい。多くの人々はそれで苦労している。
在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)はビルマ難民の会員のために身元保証人を引き受け,仮放免申請をするという活動を続けている。
身元保証人を引き受ける,といっても,今,会でそれをするのはわたししかいないので,ほとんどの場合わたしが身元保証人となる。
で,現在,20人ぐらいの身元保証人をしている。
これは多いように見えるが,100人もやっている人もいるというので大きな顔はできない。この人は教会関係者で,ビルマだけでなく他の難民のも引き受けている。
一般に,難民支援というものでお金をもらっている人は,不可解なことに,たいていこの身元保証人というものをしない。
こうしたものをするのは被収容者の知り合いや身内,あるいはわたしのような普通の人々か,入管問題か何かの活動家か,宗教関係者で,難民支援の分野でお金を貰っていることはまずない。
お金を稼ぐことがプロの証明なら,身元保証というのはアマチュアの業ということかもしれない。
プロから見れば,難民支援のまねごとと冷笑されるようなことかもしれない。
もしそうでなければ,つまり,難民支援の本質的な仕事のひとつと見なされているのならば,当然これらの人々や団体が率先して取り組んでいるはずで,身元保証の畑はすっかり刈り取られてしまい,わたしなどが慌てて出かけていっても落ち穂の一本も拾えやしないだろう。
身元保証や仮放免申請には特別な技術も経験もいらない。書類を集めて提出するだけだ。人権論だ支援技術論だなどということを知らなくても誰でもできる(実際にわたしも知らない)。おそらくこれが難民支援のプロにとってはばかばかしく思えるのだろう。
これらの人々が身元保証をしない理由については他にも色々考えられる(例えば組織的な理由とか)が,わたしには本当のところは分からない(ただし弁護士は,契約関係のある依頼人のためにこれをすることがある)。
なんにせよ,わたしはこの身元保証に自分の人生のかなりの時間を費やしているのだが,難民支援という観点からしたら実はとんでもなく無意味なことをしているのではないかとひそかに疑っているのである(もっともわたしは難民支援家ではないが)。
ある夜のこと,都内のアパートの一室に3人のビルマ難民が居合わせることになった。そのうち2人はそこの住人で,もうひとりは名古屋から来た人で,そこに宿泊していた。
3人とも難民認定申請中で,入管に収容された経験もある。住人のひとりと名古屋から来た人は以前からの知り合いだった。それで,住人が名古屋から来た難民に尋ねた。「身元保証人は誰?」
彼はわたしの名前を答える。
すると住人,「あー! それはわたしの保証人だ!」
するともうひとりの住人が驚いた。「なんだ! わたしもだよ!」
みんな大笑いだ。
意味はないかもしれないが,笑い話の種にはなったというわけだ。
難民支援のプロから見れば,身元保証も,またこのエピソードも無意味なことかもしれない。しかし,こと生きることにかけてはプロもアマチュアもあったもんじゃない。それはひとつしかない。そして,そのたったひとつしかない生きることに関わる限りにおいては,どんなことにも何かの意味が生じる局面があるということだろう。