2013/08/02

カチン独立軍(KIA)の病院(6)

この療養室にいたのはカチン民族ばかりではなく,わたしは少なくとも3人の他民族の負傷兵に出会った。


1人はビルマ民族で全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)のメンバーで,30代前半というところ。出身はチン民族などが多く住むザガイン管区カレーミョーだが,チン民族ではない。

彼は臀部の辺りを撃たれてここに運び込まれてきた。 前線にはまだ数名のABSDFメンバーが残って,KIAと行動をともにしているという。どうしてKIAに加勢しているのかと尋ねたら,自分は今のビルマ政府のやり方が間違っていると思うから戦っている,と答えた。カチン語は分からないが,周りのカチン人がビルマ語を話すので問題はないとのことだった。

シャン州から来た若いシャン人もいた。腹部に縫合跡があったが,他の人と比べてかなり回復しているようだった。そばには母親がおり,息子の世話を焼いていた。「カチン人と一緒に暮らしてきた自分は,シャン州とカチン人を愛しているから,一緒に戦っている」のだという。


最後の1人は,厳密にいうと病院の外で出会った若い兵士だ。わたしたちが帰ろうとしているときに彼は話しかけてきた。聞けば,前日の戦闘で亡くなった兵士と同じ部隊にいたという。亡くなった兵士が撃たれた場所は少し離れた場所にあり,戦闘のため他の兵士が近づくことができず,救助が遅れたのだそうだ。

この若い兵士自身も軽度の負傷をしたようで,首の後ろ辺りに分厚い脱脂綿が絆創膏で貼付けてあった。

彼はミッチーナー出身のムスリムで,自分はカチン人の中で生まれ育ち,カチン人と同じようにカチン州を守りたいから戦闘に加わったのです,と話してくれた。

2013/07/31

カチン独立軍(KIA)の病院(5)

さて,一番端にあるベッドは薄い板で仕切られていて,そこには見るからに衰弱し切った兵士が寝かされていた。

やせ細ってあばらが浮き出ている。顔の肉は削げ,そのせいで歯がむき出しになっている。
そして,彼の目だが,ベッドの脇で写真やビデオを撮るわたしも,日本からやってきたカチン人の女性が涙を流しながら祈る姿も捉える力がないかと思われるほど,うつろであった。

彼にもまた開腹手術の跡があった。だから,銃で撃たれたか,砲弾の破片が食い込んだのだ。骨と皮ばかりの腕には点滴の針が刺さっている。左の大腿部にも包帯が巻かれており,そこにも傷があるようだった。

 

年齢は,20代後半から30代前半というところで,いずれにせよまだ若いこの兵士は,誰にも分からない苦しみにじっと耐えているのだった。わたしは彼が死にかけており,それゆえ,この「特別個室」が充てがわれているのだと思ったが,その通りかどうかは分からない。

パドー・マンシャの詩

カレン民族同盟(KNU)の前事務総長で2008年2月にタイのメソットの自宅で暗殺されたパドー・マンシャ(パドー・マンシャラパン)については何度か書いたが,彼には2人の娘がおり,2人ともイギリスを拠点に熱心に政治活動を続けている。

 2007年2月5日にタイ・ビルマ国境で撮影

姉のナン・ブワブワパン(Nant Bwa Bwa Phan)さんとは,2011年6月に,タイ・ビルマ国境で行われたカレンの会議に出席したさいにわたしは会ったことがあり,日本のカレン人に向けたビデオ・メッセージを撮影させてもらった。

さて,彼女がFacebookに"To Beloved Daughter"(「愛しき娘へ」)というマンシャさんの詩を投稿した。コメント欄に英訳も載せてくれているので,かりそめに日本語訳してみよう(ただし英訳には意味のとりにくい部分がある)。

「愛しき娘へ」

おお,我が愛しき娘よ
人生の長い旅路に
太陽の下,いっぱいの日差しの中
南北が分からないかのように,じっと立ちすくむ者もいる
しかし夜のただ中
道も分からない時に
どちらが南で北かはっきりと見極め
行き先に向かって旅を続ける者もいる。
嵐の風と
荒波の中
泣いて,嘆いて
諦めて
堕落していく者もいる。
荒れ狂う嵐と
時化た海でも
旅を続ける者がいる。流れと厳しい風に立ち向かって
おお,我が愛しき娘よ
誠実さと良心を,注意深さと道徳心(*)を,勤勉さと向学心を,
信仰と素直さを,勇気と献身を忘れるな
これらの上に立ち,旅を続けなさい,恐れることなく
崇高な目的地へと

(*原文のethnicsはethicsではないかと思う。)

【元の英訳】
To Beloved Daughter

O my beloved daughter,
In the long journey of life,
In broad daylight, under the sun,
As it’s hard to know where north and south are, There’re also those who’re standing still.
Though in the middle of the night,
A time hard to see the way,
As north and south are definitely known,
There’re those who’re journeying towards the destination.
In the stormy wind,
And the waves blasting,
Crying and wailing,
In abandonment,
There’re also those who’ve sunk into depravity.
In the violent storm,
And the stormy sea,
There’re also those who are journeying, Against the current and vicious wind.
O my beloved daughter,
Keep sincerity and conscience, Alertness and ethnics, Diligence and learning,
Faith and uprightness, Courage and sacrifice,
As a base and journey on, With fearlessness,
For the noble cause.

2013/07/30

カチン独立軍(KIA)の病院(4)

すでに書いたが,この日はいつになく負傷者が多く,ベッドはすべて埋まっていた。


残りの12床について思い出せる限り記すと,地雷の被害にあった人が2名で,残りがおそらくすべて戦闘による負傷者であった。地雷被害者のうち,1人は右足の膝から下を失っていた。わたしたちはロンジーをめくって,包帯にぐるぐる巻きにされ,血のにじんでいるその部分を見せてもらった。

ロンジーをめくり上げるのに少々ためらわずにはいられなかったが,付き添いの人も,また同行した在日カチン人も勧めるので,わたしはビデオに撮り,写真を撮った。


怪我人は口をへの字にしてどこか別のほうを静かに見つめていた。 わたしたちのほうに顔を向けもしなかった。

もう1人の地雷被害者は,四肢は無事だったようだが,身体の右側が傷だらけだった。地雷が右側で爆発したのである。右拳全体に包帯が巻かれていた。特にひどかったのは右目で,失明したのだそうだ。彼もまたひとことも発せずに,トランクス一枚でベッドの上で膝を抱えたり,横になったりしていた。2人のうちどちらかは民間人であったように思う。

同じ並びに口ひげを生やした兵士がいた。喉を負傷し,それで話せなくなったのだという。彼はベッドに横になり,ときどき,何か静かな悲しい情感に溢れた目ででどこかを見つめていたのが忘れられない。


負傷者のうち何人かの腹部には,銃弾の摘出手術が行われたことを示す縫合跡があった。ただ仰向けに寝ている者もいたが,手術を受けてしばらく経過したのか,ベッドの縁に腰掛けて付き添いの家族と雑談している者もいた。どちらも比較的生気のある表情をしていた。負傷のショックから立ち直りつつあるのだろう。


なお,ベッドは長細い部屋の両脇に並べられているが,間の通路にヒモが張り渡されていた。それに,患者の個人情報や病状を記したファイルが吊るされていたので,時間があればもう少し詳しく怪我の状況なども知ることができたように思う。

カチン独立軍(KIA)の病院(3)

さて,ようやくわたしたちは遺体安置所を出て,隣の病院に入る。もっとも病院といっても建物も設備も最低限なものだ。長細い平屋建てで片方の端が処置室,もういっぽうの端が炊事場になっている。その間の長い空間がベッドの並ぶ療養室だ。

入り口は長い辺の真ん中あたりにあり,右側に12のベッドが向かい合って並ぶ。左側には片方だけに4つのベッドが設置されている。こちらは処置室のある側で,したがって負傷したばかりの兵士,ほとんど処置の済んでいない兵士が4人寝かされていた。


これらは前日の戦闘で負傷した兵士たちで,死んだ兵士と同じ部隊にいた。

1人は40代で,わたしとそう変わらない。左足の踵に傷を負い,その血は包帯から滴り落ちていた。その隣には全身傷だらけの若い兵士が意識なく横たわっており,人々が取り巻いていた。彼については後で書こう。


次の負傷兵についてはわたしはあまり記憶がない。4人めの兵士は,わたしたちが病院にいる間にストレッチャーに乗せられて,隣の処置室に運ばれていった。人々は彼を抱え上げなんとかベッドに載せたが,痛みが激しいのか,うなり声をあげて身体を痙攣させた。彼が去ったベッドの上には,血の溜まったビニールシートが残された。

2013/07/29

BRSA会長挨拶

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)の2012年度の会長としての総会向けのメッセージを以下のリンクに掲載しました。

第6回総会報告 会長挨拶

難民の帰還に関する ビルマ政府および国際社会に対する要望書

在日ビルマ難民たすけあいの会(BRSA)で次のような声明文を出したので参考までに。

難民の帰還に関するビルマ政府および国際社会に対する要望書

現在のビルマ政府がテインセイン大統領のもと、民主的制度に基づく国づくりを進めていることはおおいに評価できることです。


しかし、長期にわたる軍事政権下において生じた貧困、国民間の断絶、社会の腐敗、教育の荒廃は未だに存続し、新しいビルマの課題として今なお残されています。


そのような課題の1つとして、1988年の民主化運動への軍事政権の迫害によって生まれた難民たちの帰還の問題があります。世界各国に散らばるこれらの難民たちは、それぞれの場所でコミュニティを作りながら、現在のビルマの変化を非常な関心を持って見守っています。


私たち在日ビルマ難民たすけあいの会は日本における政治難民と日本国民とによって設立された団体です。政治的難民である私たちの希望は、いつの日か民主的で安全となったビルマに帰国し、長年離ればなれになっている家族と再会し、新しいビルマのために一生懸命働くことです。


しかし、現在のビルマはいまだ私たちにとって安全な国であるとはいえません。カチン独立機構への戦争、そしてモンユワでの国民への弾圧を見ても分かるように、ビルマ政府は国内の自由と平和の確立のためにすべきことを十分になしていないといえます。このような状況では、日本にいる私たちのみならず、アメリカやヨーロッパ、タイ、インド、シンガポール、マレーシア、あるいは国境の難民キャンプに暮らす難民たちが自分たちの安全を確信して、家族を連れて帰国することは不可能です。


これらの難民たちは、異国での困難な生活の中で、外国語を学び、様々な経験を積んできました。中には、非常に高い教育を受ける機会に恵まれた人もいます。これらの経験豊かな人々が、新しいビルマのために力を尽くすことができないのは、ビルマにとって多大な損失であるといえます。


ゆえに、私たち在日ビルマ難民たすけあいの会は、多くのビルマ難民が安心して帰国できるためにビルマ政府に以下の対策をとるようここに要望いたします。



1)民主化をさらに推進すること。

2)国内の平和を確立すること。特に現在行われているカチン独立機構との戦争を停止すること。


3)帰還する政治的難民の生命の安全を保障すること。


4)政治的難民の帰還手続きを公平なものとし、在外大使館における「税金」の徴収を免除すること。

5)帰還する政治的難民への補償を行うこと。

6)帰還する政治的難民が故郷での新生活を開始できるように支援すること。



また、国際社会に対しては次のように要望いたします。



1)ビルマ政府が民主主義と平和を確立するように常に働きかけること。

2)難民の帰還事業のため、生活支援、職業訓練など必要な支援を行うこと。

2013年5月26日 在日ビルマ難民たすけあいの会