5.招待状
水掛け祭が終わって4日後の4月10日、カレン情報スペース宛にメールが届いた。カレン情報スペース(KIS)というのは、当時ぼくが在日カレン人と毎月一回都内で開催していた催し物で、カレン人と日本人が集っていろいろな情報を交換し合う広場ができればと思ってはじめたものだった。このKIS宛のメールは次のような内容だった(実際のメールに基づくが、そのままの引用ではない)。
カレン情報スペース様
6月にビルマの現状を記録した写真展を開催します。
在日のたくさんの団体さんとも共同行動を行います。
カレン情報スペース様もぜひ協賛団体としてお誘いさせていただきたいと思いご連絡いたしました。
その翌日に出したぼくの返信は次の通り。
担当者様
写真展の共同行動のお誘いありがとうございます。ぜひとも、協力させていただきます。
ところで、KNA-Japanの他に、新たにカレン海外協会(日本)OKA-Japanというやはり在日カレン人を中心とした民主化グループがこの春に結成されました。日曜日にそちらの団体の会議があるので、協賛の相談をしてみたいと思いますがよろしいでしょうか。
すぐにKISとしての協賛に対する感謝を記したメールが返ってきた。さらに担当者はKNA-Japanの責任者と連絡が取れないと述べ、協賛するかどうかについて代わりに確認してほしいと頼んできたのである。そして、もちろんのことぼくはその頼み事を果たしたが、形式的にしたにすぎない。というのも、そのときぼくはKNA-Japanが、いやそれどころかビルマ民主化団体、少数民族団体のほとんどが、この写真展の協賛を拒否していたことを知っていたからだった。
2009/11/16
2009/11/13
森を見て木を見ない話(4)
4.水掛け祭
さて、ここで話を戻すと、このKNF-Japanの親切な申し出のおかげで、OKA-Japanは最初のお披露目のチャンスをつかむことができたのである。
2006年の水掛け祭は4月6日で、場所は例年通り、王子の飛鳥山公園。浮かれたビルマ人と花見客でごった返す中、われわれは生春巻きと軟骨からあげを売った。どのメンバーの顔も生き生きとし、喜びにあふれていた。新しい組織の最初の活動というものはなんとも楽しいものだ。もっとも、この楽しみを維持するのは並大抵のことではないことを後になって知るのだが。
それはともかく、水掛け祭の出店は大成功だった。われわれは日本語で書かれたOKA-Japanの紹介文を配り、新しいグループができたことを大いに宣伝した。さらに、1日の純利益である6万円という金額もなかなかのものだった。カレン人の多く暮らすタイ・ビルマ国境地帯でそれがどれだけの価値を持つか知らない者はいなかった。その国境地帯では、カレンの村人たちがビルマ軍に攻撃され、避難民、孤児となってジャングルの中を逃げ惑っていた。こうしたカレン人避難民を支援すること、われわれはこれをひとつの目的として、OKA-Japanを設立したのだ。
水掛け祭での活動によって、ビルマ人社会で存在を認められるという目標は最低限達成できた。次は、これを日本人に対して行わねばならなかった。日本で暮らす以上、難民問題、ビルマ問題に関わる日本人の協力は欠かせないからである。そして、まさにそれにうってつけの機会が6月に予定されていた。
さて、ここで話を戻すと、このKNF-Japanの親切な申し出のおかげで、OKA-Japanは最初のお披露目のチャンスをつかむことができたのである。
2006年の水掛け祭は4月6日で、場所は例年通り、王子の飛鳥山公園。浮かれたビルマ人と花見客でごった返す中、われわれは生春巻きと軟骨からあげを売った。どのメンバーの顔も生き生きとし、喜びにあふれていた。新しい組織の最初の活動というものはなんとも楽しいものだ。もっとも、この楽しみを維持するのは並大抵のことではないことを後になって知るのだが。
それはともかく、水掛け祭の出店は大成功だった。われわれは日本語で書かれたOKA-Japanの紹介文を配り、新しいグループができたことを大いに宣伝した。さらに、1日の純利益である6万円という金額もなかなかのものだった。カレン人の多く暮らすタイ・ビルマ国境地帯でそれがどれだけの価値を持つか知らない者はいなかった。その国境地帯では、カレンの村人たちがビルマ軍に攻撃され、避難民、孤児となってジャングルの中を逃げ惑っていた。こうしたカレン人避難民を支援すること、われわれはこれをひとつの目的として、OKA-Japanを設立したのだ。
水掛け祭での活動によって、ビルマ人社会で存在を認められるという目標は最低限達成できた。次は、これを日本人に対して行わねばならなかった。日本で暮らす以上、難民問題、ビルマ問題に関わる日本人の協力は欠かせないからである。そして、まさにそれにうってつけの機会が6月に予定されていた。
2009/11/11
森を見て木を見ない話(3)
3.3つのカレン人政治団体
さて、日本のカレン民族政治組織はOKA-Japanを除けば、このKNF-Japanと在日カレン民族協会KNA-Japanの2つがある。どちらも、 OKA-Japanより先にできた団体だ。KNF-Japanはビルマ国境でビルマ政府と戦っているKNFの下部組織で、MさんはKNF日本代表を務めている。KNA-Japanは国際的カレン人組織のKNAの承諾を得て、日本でKNAの名を使っている組織である(つまり、KNAは組織構造的にKNA- Japanを下に置いているわけではなく、またKNA-JapanもKNAの指示によって動いているわけではない。どちらも組織としては独立している)。
すでに2つもあるのに、どうして3つ目が必要なのか、そう思われる方もいるかもしれないが、やはり長くなるのでここでは説明しない。ただ、会の結成時には15人のメンバーが集い、さらに3ヶ月後の6月には会員数が20人になっていたこと、そしてこれは他の2つのカレン人組織それぞれの会員数よりも多かったことを指摘すれば十分だろう(今なおOKA-Japanは日本最大のカレン人政治団体だ)。
もっとも、これには少しトリックがある。OKA-Japanは設立時の方針として、他の組織に所属している人でも積極的に受け入れたのである。だから、OKA-Japanだけにしか所属していないという人はそれほど多くはなかった。
組織のなかには、基本的に他の組織への参加を好まない排他的なメンバーシップをとる組織と、そうでない組織がある。OKA-Japanはその意味ではオープンなメンバーシップでやっていこうと決めていた。だが、それは会員数を増やしたいからという理由によるものではなく、良い組織というものは常に誰でも受け入れ、また会員が組織の外で活躍することを促すものだからである。
だから、OKA-Japanのメンバーはさまざまな背景を持つ人ばかりだった。KNA-Japan、KNF-Japanばかりでなく、国民民主連盟解放地区日本支部などのビルマ人の多い組織に所属している人もいた。後にやめてしまったが、モン民族の人も参加していた。
KNF-Japanは自分たちの会員が他の組織に加わることについて特に反対はしなかった。そんなわけで、KNF-JapanとOKA-Japanとの双方に籍を置いて活動している人は今なおいる。しかし、KNA-Japanにはこのような2重のメンバーシップは受け入れがたいようだった。それで、KNA -JapanのメンバーでOKA-Japanに加わった人は、後にどちらの組織に所属するかの選択を迫られることとなった。KNA-Japanのメンバーとともに3年のあいだ活動し、メンバーではなかったが「スポークスマン」という役職を任されていたぼくもそのひとりであった。
さて、日本のカレン民族政治組織はOKA-Japanを除けば、このKNF-Japanと在日カレン民族協会KNA-Japanの2つがある。どちらも、 OKA-Japanより先にできた団体だ。KNF-Japanはビルマ国境でビルマ政府と戦っているKNFの下部組織で、MさんはKNF日本代表を務めている。KNA-Japanは国際的カレン人組織のKNAの承諾を得て、日本でKNAの名を使っている組織である(つまり、KNAは組織構造的にKNA- Japanを下に置いているわけではなく、またKNA-JapanもKNAの指示によって動いているわけではない。どちらも組織としては独立している)。
すでに2つもあるのに、どうして3つ目が必要なのか、そう思われる方もいるかもしれないが、やはり長くなるのでここでは説明しない。ただ、会の結成時には15人のメンバーが集い、さらに3ヶ月後の6月には会員数が20人になっていたこと、そしてこれは他の2つのカレン人組織それぞれの会員数よりも多かったことを指摘すれば十分だろう(今なおOKA-Japanは日本最大のカレン人政治団体だ)。
もっとも、これには少しトリックがある。OKA-Japanは設立時の方針として、他の組織に所属している人でも積極的に受け入れたのである。だから、OKA-Japanだけにしか所属していないという人はそれほど多くはなかった。
組織のなかには、基本的に他の組織への参加を好まない排他的なメンバーシップをとる組織と、そうでない組織がある。OKA-Japanはその意味ではオープンなメンバーシップでやっていこうと決めていた。だが、それは会員数を増やしたいからという理由によるものではなく、良い組織というものは常に誰でも受け入れ、また会員が組織の外で活躍することを促すものだからである。
だから、OKA-Japanのメンバーはさまざまな背景を持つ人ばかりだった。KNA-Japan、KNF-Japanばかりでなく、国民民主連盟解放地区日本支部などのビルマ人の多い組織に所属している人もいた。後にやめてしまったが、モン民族の人も参加していた。
KNF-Japanは自分たちの会員が他の組織に加わることについて特に反対はしなかった。そんなわけで、KNF-JapanとOKA-Japanとの双方に籍を置いて活動している人は今なおいる。しかし、KNA-Japanにはこのような2重のメンバーシップは受け入れがたいようだった。それで、KNA -JapanのメンバーでOKA-Japanに加わった人は、後にどちらの組織に所属するかの選択を迫られることとなった。KNA-Japanのメンバーとともに3年のあいだ活動し、メンバーではなかったが「スポークスマン」という役職を任されていたぼくもそのひとりであった。
2009/11/09
森を見て木を見ない話(2)
2.あるカレン人組織の誕生
ぼくは在日カレン人による政治団体、海外カレン協会(日本)OKA-Japanの創立者のひとりだ。どうして日本人であるぼくがカレン人の団体の設立にかかわったか、話せば長くなるが、それは今回の話の主題ではない。
主題となる事件が起きたのは、OKA-Japanが結成されて1ヶ月ほど経った2006年4月のことだ。
新しい組織はまず最初に何をなすべきか。なんといっても、日本のビルマ民主化団体、非ビルマ民族政治団体のなかで認知されること、さらに日本人の支援団体の中でカレン人のこういう組織があるということを知ってもらうことが優先されなければならない。もちろん、組織作りやメンバー間の協力関係の育成などやることはいくらでもあるが、どんなに立派な人材と組織があっても、他の組織から相手にされないのではお話しにならない。そういうわけで、イベントなり集会、デモなどに「OKA-Japan」という旗を掲げて積極的に参加することが必要となる。
折りも折り、うってつけのイベントがあった。毎年4月に行われる水掛け祭である。ビルマ民主連盟(LDB)が主催するこのビルマの伝統行事には、多くの民主化団体、非ビルマ民族政治組織が集い、お店を出して伝統料理を売ったり、歌や踊りを披露したりする。
OKA-Japanも参加させてもらおうとさっそく申し込みをしたが、すでに空き場所はなかった。すると、話を聞いたカレン民族連合(KNF- Japan)の代表のMさんが、「自分たちも今年も店を出してカエルのからあげを売るつもりでいるが、こちらは人手も少ないので、店を半分貸すからOKA -Japanで使ってください」と親切にも提案してくれたのである。
ぼくは在日カレン人による政治団体、海外カレン協会(日本)OKA-Japanの創立者のひとりだ。どうして日本人であるぼくがカレン人の団体の設立にかかわったか、話せば長くなるが、それは今回の話の主題ではない。
主題となる事件が起きたのは、OKA-Japanが結成されて1ヶ月ほど経った2006年4月のことだ。
新しい組織はまず最初に何をなすべきか。なんといっても、日本のビルマ民主化団体、非ビルマ民族政治団体のなかで認知されること、さらに日本人の支援団体の中でカレン人のこういう組織があるということを知ってもらうことが優先されなければならない。もちろん、組織作りやメンバー間の協力関係の育成などやることはいくらでもあるが、どんなに立派な人材と組織があっても、他の組織から相手にされないのではお話しにならない。そういうわけで、イベントなり集会、デモなどに「OKA-Japan」という旗を掲げて積極的に参加することが必要となる。
折りも折り、うってつけのイベントがあった。毎年4月に行われる水掛け祭である。ビルマ民主連盟(LDB)が主催するこのビルマの伝統行事には、多くの民主化団体、非ビルマ民族政治組織が集い、お店を出して伝統料理を売ったり、歌や踊りを披露したりする。
OKA-Japanも参加させてもらおうとさっそく申し込みをしたが、すでに空き場所はなかった。すると、話を聞いたカレン民族連合(KNF- Japan)の代表のMさんが、「自分たちも今年も店を出してカエルのからあげを売るつもりでいるが、こちらは人手も少ないので、店を半分貸すからOKA -Japanで使ってください」と親切にも提案してくれたのである。
2009/11/06
森を見て木を見ない話(1)
1.やや長めの「はじめに」
ぼくがこの物語で行おうとしているのは、特定の団体を非難することではない。その世界的な団体は非常に有益な活動で知られており、ぼくもそれには十分な敬意を払っている。ぼくがしたいのはむしろ、そうした組織的に大きな団体が、規模や歴史の点でその組織ほど十分に保護されていない小さな組織や個人に対して誤りを犯すことがある、という一般的傾向を指摘することである。
また、同時に物語には、ビルマ民主化運動、非ビルマ民族政治運動を語る上で不可欠な要素がいくつも関与している。3年以上前の出来事だが、日本におけるビルマの政治運動がどのように動いているか、そのコンパクトな実例としても読んでいただけることだろう。もちろん、ぼくはビルマの政治運動の当事者ではない。だが、やや特殊な事情から、この出来事の際には渦中にいたといってもよいと思う。そして、その当事者性ゆえに、いくつかの場合で匿名や仮名を用いさせていただかなければならなかった。なぜなら、ぼくが語ることが、つねに客観的で正しいとは限らないからである。できるだけそうであるように努めてはいるにしても、だ。
また、カレン人の政治組織が3つ登場するが、それらの団体に関する記述は、ぼくがもっとも深く関わったOKA-Japanのそれでさえ、2006年当時のものであり、またぼく個人の見解・観察によるものである、ということを明記しておく必要があるだろう。これらそれぞれに個性を持ち、それぞれ立派な活動を行っている団体について、その実情をお知りになりたい方は、ご自分で連絡を取り、直接話を聞くことをお勧めする。ともあれ、誰かがこの物語を読んで、これらのカレン人の団体のひとつにでも悪印象を持ったとしたら、それはぼくの書き方が悪いのである。
同様に、物語で取り上げる匿名の団体に対する見解も、あくまでぼく個人のものであり、OKA-Japanを代表するものでは決してない。現在のOKA- Japanのメンバーの中には、今なお、不安定な人権状況に暮らす者が多数おり、これらの人々の命のためにその団体が果たすべき役割はとてつもなく大きい。
公平を期すためにいえば、ぼくは自分が創立に携わったOKA-Japanで、今なお「国際プログラム担当」という役割をいただいている。これはタイ・ビルマ国境の難民の支援を行う上で、誰かタイに行ける人が必要だったためで、メンバーの誰もビザがなく、海外はおろか東京の外にすら自由に出られなかった時期の名残である。今や、多くのメンバーが喜ばしいことに、何らかの滞在資格を得ている。手間はかかるが、海外旅行も可能になった。OKA-Japanは自立の道を歩きつつあり、それと同時にぼくの役割の重要性も軽減した。それでもメンバーたちはある種の記念のような形で、引き続きぼくがこの役職につくことを許してくれた。とはいえ、これはほとんど名目上のもので、2006年の創立当時のようにぼくが組織の運営にかかわることは現在はない。
さて、件の事件は、当初ぼくを悲憤慷慨させたのであった。だが、同時にどうしてこのようなことが起こるのか、その仕組みについて知りたくもなった。ぼくは長い間考え続け、その結果をこうしてここに公表させていただくわけである。
ぼくがこの物語で行おうとしているのは、特定の団体を非難することではない。その世界的な団体は非常に有益な活動で知られており、ぼくもそれには十分な敬意を払っている。ぼくがしたいのはむしろ、そうした組織的に大きな団体が、規模や歴史の点でその組織ほど十分に保護されていない小さな組織や個人に対して誤りを犯すことがある、という一般的傾向を指摘することである。
また、同時に物語には、ビルマ民主化運動、非ビルマ民族政治運動を語る上で不可欠な要素がいくつも関与している。3年以上前の出来事だが、日本におけるビルマの政治運動がどのように動いているか、そのコンパクトな実例としても読んでいただけることだろう。もちろん、ぼくはビルマの政治運動の当事者ではない。だが、やや特殊な事情から、この出来事の際には渦中にいたといってもよいと思う。そして、その当事者性ゆえに、いくつかの場合で匿名や仮名を用いさせていただかなければならなかった。なぜなら、ぼくが語ることが、つねに客観的で正しいとは限らないからである。できるだけそうであるように努めてはいるにしても、だ。
また、カレン人の政治組織が3つ登場するが、それらの団体に関する記述は、ぼくがもっとも深く関わったOKA-Japanのそれでさえ、2006年当時のものであり、またぼく個人の見解・観察によるものである、ということを明記しておく必要があるだろう。これらそれぞれに個性を持ち、それぞれ立派な活動を行っている団体について、その実情をお知りになりたい方は、ご自分で連絡を取り、直接話を聞くことをお勧めする。ともあれ、誰かがこの物語を読んで、これらのカレン人の団体のひとつにでも悪印象を持ったとしたら、それはぼくの書き方が悪いのである。
同様に、物語で取り上げる匿名の団体に対する見解も、あくまでぼく個人のものであり、OKA-Japanを代表するものでは決してない。現在のOKA- Japanのメンバーの中には、今なお、不安定な人権状況に暮らす者が多数おり、これらの人々の命のためにその団体が果たすべき役割はとてつもなく大きい。
公平を期すためにいえば、ぼくは自分が創立に携わったOKA-Japanで、今なお「国際プログラム担当」という役割をいただいている。これはタイ・ビルマ国境の難民の支援を行う上で、誰かタイに行ける人が必要だったためで、メンバーの誰もビザがなく、海外はおろか東京の外にすら自由に出られなかった時期の名残である。今や、多くのメンバーが喜ばしいことに、何らかの滞在資格を得ている。手間はかかるが、海外旅行も可能になった。OKA-Japanは自立の道を歩きつつあり、それと同時にぼくの役割の重要性も軽減した。それでもメンバーたちはある種の記念のような形で、引き続きぼくがこの役職につくことを許してくれた。とはいえ、これはほとんど名目上のもので、2006年の創立当時のようにぼくが組織の運営にかかわることは現在はない。
さて、件の事件は、当初ぼくを悲憤慷慨させたのであった。だが、同時にどうしてこのようなことが起こるのか、その仕組みについて知りたくもなった。ぼくは長い間考え続け、その結果をこうしてここに公表させていただくわけである。
2009/11/04
身元保証費用
入管に収容された難民認定申請者が仮放免される時に必要なのが保証金。ビルマ難民の場合は現在の相場は30万円だが、50万、100万支払わなくてはならない時代もあった。
この保証金は、申請者の滞在が認められたときに、返ってくる。これを引き出すことができるのは申請者の身元保証人のみ(か、その代理)だ。
保証金はたいていの場合、申請者が用意する。しかし、身元保証人のハンコがなければ、これを取り返すことができない。ここにトラブルの生じる余地がある。
なかには悪い身元保証人がいて、100万なり30万なりの保証金を自分のものにしてしまうのだという。
「第2の上陸」でも書いたが、難民申請者にとって、それまで日本の生活で築きあげてきたものを失うのがいかに簡単であるか、の一例。
この保証金は、申請者の滞在が認められたときに、返ってくる。これを引き出すことができるのは申請者の身元保証人のみ(か、その代理)だ。
保証金はたいていの場合、申請者が用意する。しかし、身元保証人のハンコがなければ、これを取り返すことができない。ここにトラブルの生じる余地がある。
なかには悪い身元保証人がいて、100万なり30万なりの保証金を自分のものにしてしまうのだという。
「第2の上陸」でも書いたが、難民申請者にとって、それまで日本の生活で築きあげてきたものを失うのがいかに簡単であるか、の一例。
2009/11/03
剣とバッグ
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