さて、2009年1月のこと、在日カレン人がカレン民族新年祭を東京で開催することになった。カレン民族新年祭というのはカレン人の伝統行事のひとつで、日本でも毎年開催されている。ターターの団体は1月のある日曜日を開催日として提案したが、他の2グループは別の日曜日を押し、結局多数決で後者の日程に決められた(ターターの団体はメンバーがビザを取ると次々に離れていくので、公称上はともかく人は少ない)。すると、ターターは次のように言い放ったという。
「わたしたちの団体は今年の新年祭には協力しない。お前たちだけでできるならやってみろ」
ターターの読みとしては、いずれ自分の力が必要になって泣きついてくる、あるいは新年祭が失敗に終わり、そのことで自分の存在感をかえってビルマ人社会、そして日本人社会にアピールできる、というものだったと、ある人はいうが、3年前だったらそれも成立したかもしれない。当時は難民として認定されていたのはほとんどターターとその取り巻きのみで、誰もが一目置かざるをえなかったのだ。
だが、時代は変わった。今では他の2グループのメンバーもほとんどが難民ビザ、あるいは特別在留許可を認められていて、かつてのように無力で寄る辺ない存在ではなくなっていた。むしろターターの言葉に他の2団体は「バカにするな、自分たちでやってやれ」と発奮したぐらいなのである。
結果からいえば、新年祭は成功だった。ぼくはその日、別の用事があってここ数年ではじめてカレン新年祭を欠席したのだが、夜、たまたま高田馬場の駅で出会ったカレン人の知人が、興奮気味にいかに多くのカレン人が集まり、楽しく祝い合ったかを話してくれたのを覚えている。しかも、参加者はカレン人ばかりではなかった。ビルマ民主化団体、非ビルマ民族の政治団体の代表たちも会場にやってきて、歌と踊り、そしてカレン料理を満喫したのだという。
いっぽう、ターターは、自分の団体のメンバーたちに新年祭への参加を厳しく禁止していた。そればかりではなく、彼は別の団体に所属するあるカレン人に対し「あなたはカレン人としてふさわしくないから行くな」などという電話をしていたのだそうだ。そのカレン人は迷った末に遅れてやってきたため、電話の内容が明らかになったわけだが、ターターとしてはあらゆる手を使って、この新年祭を失敗に終わらせようと頑張っていたのだった。
だが、このカレン新年祭そのものは、どこの政治団体のものというわけではない。在日カレン人みんなのものだ。しかも、多くのカレン人にとっては、年一度の楽しみといっていいほどの喜ばしいイベントだ。そのようなわけで、ターターとその取り巻きは姿を現さなかったものの、一般メンバーのうち数人は禁止をものともせずやってきて、他のカレン人と一緒に喜びを分かち合わずにはいられなかった。
これらのメンバーは、普段はターターから他のカレン人と話をするなときつく命じられているので、いつも黙っているが、今回はありがたいことにターターたちの監視の目もない。大いに羽根をのばして、はしゃいでいたという。
新年祭も終わりに近づいた頃、毎度のことだが、みんなで記念写真を撮ろうということになった。参加者たちは会場のいっぽうに集まり、並びはじめる。あるカレン人が、隅のほうにいるターターたちのメンバーに気がつき「こっちに来て一緒に写真に入ろうよ!」と呼びかけた。すると、彼らは首を振りながらこう言ったのだそうだ。
「わたしたちが写った写真を議長が見たら命が危ない。それは絶対にダメ!」(了)
2009/08/14
2009/08/12
カレン殉難者の日式典のご案内
海外カレン機構(日本)OKO-Japanの主催する第59回カレン殉難者の日式典が以下のとおり行われます。
カレン殉難者の日とは、カレン人の伝説的な指導者であり、1950年8月12日にビルマ軍により虐殺されたソウ・バウジーを追悼する記念日です。ソウ・バウジーはビルマ政府にとってはカレン人「反乱」の首謀者であり、ビルマ国内ではカレン人は彼の名前を口にすることすらできません。
今年の式典では、オーストラリア在住のカレン人指導者ポール・チョウさんによる講演のほか、在日カレン人政治グループによる声明の発表や、歌などが予定されています。
日時:2009年8月16日日曜日
時間:午後2時から午後4時15分
場所:豊島区勤労福祉会館
池袋駅西口下車 徒歩約10分
池袋駅南口下車 徒歩約7分
連絡先:cyberbbn@gmail.com
カレン殉難者の日とは、カレン人の伝説的な指導者であり、1950年8月12日にビルマ軍により虐殺されたソウ・バウジーを追悼する記念日です。ソウ・バウジーはビルマ政府にとってはカレン人「反乱」の首謀者であり、ビルマ国内ではカレン人は彼の名前を口にすることすらできません。
今年の式典では、オーストラリア在住のカレン人指導者ポール・チョウさんによる講演のほか、在日カレン人政治グループによる声明の発表や、歌などが予定されています。
日時:2009年8月16日日曜日
時間:午後2時から午後4時15分
場所:豊島区勤労福祉会館
池袋駅西口下車 徒歩約10分
池袋駅南口下車 徒歩約7分
連絡先:cyberbbn@gmail.com
2009/08/11
8888民主化デモ
第21回目の8888民主化デモが東京で行われた。今回は五反田駅近くの公園から、ビルマ大使館前を抜け、その近くの公園にまでいくというコースで、例年より短め。
とはいえ、参加者は過去最大規模で、50名に満たない日本人参加者をのぞいて、約1200人ものビルマ国籍者の参加があったそうだ。
昨年は850人、一昨年は田辺寿夫さんの著書『負けるな! 在日ビルマ人』によれば、ビルマ人700人、日本人70人というから、年々増加し続けていることになる。



曇り空でかんかん照りではなかったものの、非常に蒸し暑く、汗だくになった。そんなわけで、品川の公園に着く頃には、ビルマ人に比べて根性のないぼくは、民主主義よりもお水をください、という状態になっていたのだった。
とはいえ、参加者は過去最大規模で、50名に満たない日本人参加者をのぞいて、約1200人ものビルマ国籍者の参加があったそうだ。
昨年は850人、一昨年は田辺寿夫さんの著書『負けるな! 在日ビルマ人』によれば、ビルマ人700人、日本人70人というから、年々増加し続けていることになる。



曇り空でかんかん照りではなかったものの、非常に蒸し暑く、汗だくになった。そんなわけで、品川の公園に着く頃には、ビルマ人に比べて根性のないぼくは、民主主義よりもお水をください、という状態になっていたのだった。
2009/08/07
写真は恐怖を写し出す(6)
さて、本題となる話ができる地点にようやくみなさんをお連れすることができた。まずはじめにお断りしておくが、この話の狙いは、あくまでもビルマの人々が心に抱いている恐怖、時には日本人に理解しがたい恐怖を描くことであって、人を非難することではない(それは別の機会にするつもりだから)。
日本で活動するカレン人の政治団体は3つあるが、そのうちひとつの議長を務めるカレン人は悪名高いといっても過言ではない人物だ。彼を仮にターターと呼ばせてもらうことにするが、ターターはいわば弱いものいじめの達人で、組織内で自分に従わない者に対して徹底的に弾圧を行うことで知られている。一度、彼は「反抗的なメンバー」について「この人は汚れた人間であり、カレン民族ではない」などという声明を作り、在日カレン人たちと、在日ビルマ人民主化団体のすべてに送りつけたことがある。念の入ったことに、送った相手には収容中のカレン人も含まれていた。もっとも、受け取った政治活動家の反応はひとしなみに「同じビルマの人間として恥ずかしい」とか「なんでこんなことをするのかまったく不可解」とかいうもので、まともに相手にする者はいなかったが。当時は、サフラン革命の真っ最中で、どの政治団体もひとつになって声を上げようと模索していた時期だった。こんなくだらない声明以外にもっと出すべき声明はあろうに、というのがその時のぼくの感想だ。
とはいえ、こうした強硬な姿勢は、ターターの組織のメンバーに対しては驚くほどの効果を生み出した。彼らの望みといえば、日本で難民として認められることだが、そのカギを握っているのはいまやターターなのだ。なぜなら、うっかり逆鱗に触れて追放されでもしたら、難民審査官の心証がその分悪くなることは確実だし、そうなればビザはとうていおぼつかない。いや、それどころか、ビルマに強制送還されて、政府に殺されてしまうかもしれないのだ。つまり、彼らにしてみればターターは自分たちの生殺与奪権を持つ全権者といってもよかった。ターターもまたこうした状況をよく理解していた。彼はメンバーの畏怖をさらに強めるべく、自分が日本の入管や政府の上層部と特別な関係にあるとしばしばほのめかしさえた。
かくして、恐怖でもってメンバーを支配する恐怖政治が出現する。メンバーはターターの言うことには絶対服従で、彼の前ではそのサンダルの塵を払う資格すらなかった。在日民主化運動関連のイベントでしばしば目撃されるのは、ターターとその家族と取り巻きがまるでロイヤル・ファミリーのようにメンバーたちを従えている光景だ。
なんとも厭わしい状況。だが、まさに同じようなことをビルマ軍事政権がしているのに気がつけば、あるいはこのターターに対して読者のみなさんが感じているかもしれない嫌悪感も和らぐにちがいない。つまり、軍事政権の中で育ち、その中でしか教育を受けたことのない彼は、人を統率するのに軍事政権と同じやり方しか知らないのだ。ターターの場合は極端な例だが、民主化、あるいは民族の解放を叫びながら、軍事政権のメンタリティから抜け出すことのできない政治活動家たちは多い。効力ある民主主義教育・訓練が必要とされるゆえんである。
日本で活動するカレン人の政治団体は3つあるが、そのうちひとつの議長を務めるカレン人は悪名高いといっても過言ではない人物だ。彼を仮にターターと呼ばせてもらうことにするが、ターターはいわば弱いものいじめの達人で、組織内で自分に従わない者に対して徹底的に弾圧を行うことで知られている。一度、彼は「反抗的なメンバー」について「この人は汚れた人間であり、カレン民族ではない」などという声明を作り、在日カレン人たちと、在日ビルマ人民主化団体のすべてに送りつけたことがある。念の入ったことに、送った相手には収容中のカレン人も含まれていた。もっとも、受け取った政治活動家の反応はひとしなみに「同じビルマの人間として恥ずかしい」とか「なんでこんなことをするのかまったく不可解」とかいうもので、まともに相手にする者はいなかったが。当時は、サフラン革命の真っ最中で、どの政治団体もひとつになって声を上げようと模索していた時期だった。こんなくだらない声明以外にもっと出すべき声明はあろうに、というのがその時のぼくの感想だ。
とはいえ、こうした強硬な姿勢は、ターターの組織のメンバーに対しては驚くほどの効果を生み出した。彼らの望みといえば、日本で難民として認められることだが、そのカギを握っているのはいまやターターなのだ。なぜなら、うっかり逆鱗に触れて追放されでもしたら、難民審査官の心証がその分悪くなることは確実だし、そうなればビザはとうていおぼつかない。いや、それどころか、ビルマに強制送還されて、政府に殺されてしまうかもしれないのだ。つまり、彼らにしてみればターターは自分たちの生殺与奪権を持つ全権者といってもよかった。ターターもまたこうした状況をよく理解していた。彼はメンバーの畏怖をさらに強めるべく、自分が日本の入管や政府の上層部と特別な関係にあるとしばしばほのめかしさえた。
かくして、恐怖でもってメンバーを支配する恐怖政治が出現する。メンバーはターターの言うことには絶対服従で、彼の前ではそのサンダルの塵を払う資格すらなかった。在日民主化運動関連のイベントでしばしば目撃されるのは、ターターとその家族と取り巻きがまるでロイヤル・ファミリーのようにメンバーたちを従えている光景だ。
なんとも厭わしい状況。だが、まさに同じようなことをビルマ軍事政権がしているのに気がつけば、あるいはこのターターに対して読者のみなさんが感じているかもしれない嫌悪感も和らぐにちがいない。つまり、軍事政権の中で育ち、その中でしか教育を受けたことのない彼は、人を統率するのに軍事政権と同じやり方しか知らないのだ。ターターの場合は極端な例だが、民主化、あるいは民族の解放を叫びながら、軍事政権のメンタリティから抜け出すことのできない政治活動家たちは多い。効力ある民主主義教育・訓練が必要とされるゆえんである。
2009/08/05
日本ビルマ民主化運動記念館設立
ビルマが自由な国になり、誰もが平和に暮らせるようになったら、俺はヤンゴンに日本ビルマ民主化運動記念館を建てようと思っている。
日本大使館の隣にドーンと巨大なヤツを。
記念館は日本で行われたビルマ民主化運動にかかわる文書や記録の保存と展示を目的とし、そこに行けば、日本に逃げてきたビルマの人々がどんな思いで日々、政治活動をしていたかが分かる。
品川のビルマ大使館のデモの様子も見事に再現されている。ジオラマで。
だが、この記念館の目玉はなんといっても、入管の収容所に関する展示だ。詳細な解説と展示品により、当時入管でどのような生活が行われていたかが、誰にでも分かる仕組みだ。
なかでも品川と牛久の入管収容所の実物大の再現は見逃せない。
リアルなビルマの収容者の人形が、入場者たちをお出迎えだ。それらの人形は、退屈そうにしていたり、泣いていたり、病気に苦しんでいたり、手紙を書いていたり、煙草を吸っていたり、ハンストをしていたりする。
面会室に座っているビルマ人もいる。
アクリルの壁越しに対面すれば、まるで本当に収容所で面会している気分(面会室のロックを解くカードは、お土産としてお持ち帰りください)。
しかし、面会時間は限られている。壁の向こうのドアから日本人の入管職員が顔を出して、終わりが来たことを告げるのだ。
俺が今、難民のビルマ人と付き合っているのは、将来、この入管職員役に推薦してほしいからなのだ・・・・・・
日本大使館の隣にドーンと巨大なヤツを。
記念館は日本で行われたビルマ民主化運動にかかわる文書や記録の保存と展示を目的とし、そこに行けば、日本に逃げてきたビルマの人々がどんな思いで日々、政治活動をしていたかが分かる。
品川のビルマ大使館のデモの様子も見事に再現されている。ジオラマで。
だが、この記念館の目玉はなんといっても、入管の収容所に関する展示だ。詳細な解説と展示品により、当時入管でどのような生活が行われていたかが、誰にでも分かる仕組みだ。
なかでも品川と牛久の入管収容所の実物大の再現は見逃せない。
リアルなビルマの収容者の人形が、入場者たちをお出迎えだ。それらの人形は、退屈そうにしていたり、泣いていたり、病気に苦しんでいたり、手紙を書いていたり、煙草を吸っていたり、ハンストをしていたりする。
面会室に座っているビルマ人もいる。
アクリルの壁越しに対面すれば、まるで本当に収容所で面会している気分(面会室のロックを解くカードは、お土産としてお持ち帰りください)。
しかし、面会時間は限られている。壁の向こうのドアから日本人の入管職員が顔を出して、終わりが来たことを告げるのだ。
俺が今、難民のビルマ人と付き合っているのは、将来、この入管職員役に推薦してほしいからなのだ・・・・・・
2009/08/03
天下太平
日本に暮らすチン民族難民が老いた両親を短期滞在で呼び寄せた。
3ヶ月近く日本に滞在したのち、彼らは次のような結論に達したのだという。
「日本のテレビにはおいしそうな食べ物とお笑いしか映っていない」
これはもちろん、役に建たない巨大な橋やこぎれいな農園を視察する軍人ばかり映し出されるビルマのテレビよりもまし、という意味である。
3ヶ月近く日本に滞在したのち、彼らは次のような結論に達したのだという。
「日本のテレビにはおいしそうな食べ物とお笑いしか映っていない」
これはもちろん、役に建たない巨大な橋やこぎれいな農園を視察する軍人ばかり映し出されるビルマのテレビよりもまし、という意味である。
2009/08/01
写真は恐怖を写し出す(5)
日本から帰国したビルマ国籍者が、まず怖れるのが空港での尋問だ。聞いた話によると、日本から帰ってきたということがわかると、軍情報部だか警察だかに別室に連行されるのだという。そこで、荷物を調べられ、日本のビルマ民主化活動家の写真を何枚も見せられ「こいつを知っているか」「こいつはどうだ」などと尋問されるのだが、もちろんたとえ知っていてもそう答える向こう見ずな愚か者などいやしない。「わたしは日本では日本人しかいない職場(学校)にいたので、ビルマ人とはほとんど付き合いがありませんでした。だから一切存じません」というのが、模範解答のようだ。
もっとも、なかには不運な人もいる。
あるカレン人が不法滞在で捕まって、入管によってビルマに強制送還された。ヤンゴンの空港に到着したとき、彼の手にはひとつのスーツケースがあった。送還される前に、彼の友人が、貯金とアパートに残された所持品を詰め込んで、入管に差し入れてくれたのだ。軍情報部が日本からの帰国者である彼にさっそく目を付けた。小さな部屋に連れて行き、政治活動に関わっていなかったどうか尋問を始めた。彼は実際には政治活動に関係していたが、そのことはおくびにも出さない。
だが、軍人たちはスーツケースを開け、くまなく中を調べ、彼のまったく予期せぬことについに一枚の写真を見つけだした。それは、ある政治的集会で撮られたもので、著名な難民と彼が肩を並べて写っていた。つまり、彼の友人が中身を吟味せず所持品をスーツケースに詰め込んだせいで、本来ならば持ってきてはいけない写真まで紛れ込んでしまったのだ。スーツケースは出発直前に差し入れられたため、入管から成田空港の機内まで拘束されて連れて行かれる彼には、それを開いて中身をあらためる機会などなかった。
彼は軍人たちに嘘つきと罵られ、後頭部を殴りつけられた。だが、拘留が数日間で済んだのは、かなり幸運なことだった。もっとも、彼とその親族がたっぷりと賄賂を渡していなかったら、そんな幸運も訪れなかったことだろう。
もっとも、なかには不運な人もいる。
あるカレン人が不法滞在で捕まって、入管によってビルマに強制送還された。ヤンゴンの空港に到着したとき、彼の手にはひとつのスーツケースがあった。送還される前に、彼の友人が、貯金とアパートに残された所持品を詰め込んで、入管に差し入れてくれたのだ。軍情報部が日本からの帰国者である彼にさっそく目を付けた。小さな部屋に連れて行き、政治活動に関わっていなかったどうか尋問を始めた。彼は実際には政治活動に関係していたが、そのことはおくびにも出さない。
だが、軍人たちはスーツケースを開け、くまなく中を調べ、彼のまったく予期せぬことについに一枚の写真を見つけだした。それは、ある政治的集会で撮られたもので、著名な難民と彼が肩を並べて写っていた。つまり、彼の友人が中身を吟味せず所持品をスーツケースに詰め込んだせいで、本来ならば持ってきてはいけない写真まで紛れ込んでしまったのだ。スーツケースは出発直前に差し入れられたため、入管から成田空港の機内まで拘束されて連れて行かれる彼には、それを開いて中身をあらためる機会などなかった。
彼は軍人たちに嘘つきと罵られ、後頭部を殴りつけられた。だが、拘留が数日間で済んだのは、かなり幸運なことだった。もっとも、彼とその親族がたっぷりと賄賂を渡していなかったら、そんな幸運も訪れなかったことだろう。
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